ブックレビュー「猫を棄てる 父について語るとき」村上春樹(文藝春秋、2020)

「猫を棄てる 父について語るとき」は、村上春樹さんの家族の歴史、特に父親についてのエッセイです。彼の父である村上千秋(1917-2008)は、仏教寺院の家族の次男であり、中学校と高校の国語の教師でした。このエッセイの主な説明は、彼の人生と日中戦争での経験です。

なぜ村上さんは父親について書くべきだと思いますか?彼は、彼の存在と村上氏のパーソナリティの起源の一部は、父親によって直接的または間接的に作られ、形作られていると考えられるかもしれません。村上さんの父親は、熱心で献身的な国語の先生で、多くの本を所有する読書家、趣味は俳句でした。そして、学者になるのをあきらめ、一人息子の村上さんへの希望を持ったが、村上さんはその希望と日本の画一的教育体制に反発を覚えた。父の要素は村上さんの性格を作り、一方で反感や反応なども含みます。

また、村上さんは戦争によって存在することができました。残念ながら彼の父親は第二次中日戦争時に誤って軍に徴兵されましたが、幸いなことに彼は太平洋戦争で徴兵されませんでした。彼の母親の婚約者(音楽教師)は戦争で亡くなり、大阪の彼女の両親の家は爆撃事件で焼失しました。それで彼の父と母は出会って結婚し、村上さんを出産しました。だからこそ、人生には偶然が含まれ、偶然によってそれは形作られています。人々は偶然で生きており、偶然は必然性、必要性、事実を生み出しています。村上さんは、松の木の上に猫が登ったというエピソードで以下の教訓を述べています。

結果は起因をあっさりと呑み込み、無力化していく。(p. 94)

そして、このエッセイの猫は偶然と運命の神あるいは神のような存在であり、必要性と生命をもたらします。大きなメスのトラ猫の最初のエピソードは、父親の不思議で不可解な陸軍からの除隊の隠喩です。可愛い小さな白い子猫の2番目のエピソードは、キリストの復活の隠喩です。 猫は松の木の上部に消え、天国に行きました。それは偶然か奇跡であり、村上に必然性や物語をもたらし、彼の断片になりました。

だから、このエッセイのテーマは、生命の偶然と必然性についてです。

一方で、このエッセイのもう一つのテーマは、物語と歴史です。村上さんの個性と作品は、彼の経験、環境、家族、世代に影響されていると云えます。猫についての2つのエピソードは村上氏の一部を構成しています。父親が中国人捕虜の殺害を見たり、捕虜を殺害したりする話は村上さんに影響を与え、トラウマとして引き継いだので、それは間接的な体験です。彼の父親は奈良の仏教寺院で一時的に養子になったこと、無意識の体験として村上さんに影響を与えたかもしれない。人の個人的なエピソードは彼の人格と物語を形作ります。そして村上さんは、人々のそれぞれの物語が世界と歴史の壮大な物語を作ったと考えています。彼はあとがきに書いています。

歴史は過去のものではない。それは、意識の内側で、あるいはまた無意識の内側で、温もりを持つ生きた血となって流れ、次の世代へと否応なく持ち運ばれてく物なのだ。そういう意味合いにおいて、ここに書かれているのは個人的な物語であると同時に、僕らの世界全体を作り上げている大きな物語の一部でもある。(pp. 99-100)

人々は、偶然によって存在し、事実によって生き、歴史の影響を受けます。しかし、私たちは人間として社会に住んでおり、考え、解釈し、決定し、行動する必要があります。偶然と必然、物語と歴史の間をつなぐものは思考、意識と意志です。このエッセイでは、筆者は、物語を歴史にする時代のそれぞれの個人の生き方、意志、意識の重要性を述べたいのだと私は思います。

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