責任論・自己責任論・常識論ブックリスト

■『責任はだれにあるのか?』小浜逸夫(PHP新書)

保守派評論家の著者が前半では、少年犯罪やイラク人質問題における「自己責任」という言説への疑問を述べる。後半では、キリスト教やカント、ヘーゲル、フランクルなどの哲学から近代社会における責任概念のルーツとその問題について考察する。

そもそも「自己責任」という概念は、社会的な大人として認められてはじめて成り立つ概念です。いや、大人であっても、完全な意味での自己責任という概念は成り立たないと私は思っています。(p.68)

しかし最近、「自己責任」という概念が成り立つ領域を拡張しようとする風潮がずいぶん目立ちます。これは、個人がバラバラであるという感覚が主流を埋めるようになった時代の産物と思われます。しかし多くの場合、人は相互依存によってことを成していますから、一方的に人に責任を押しつける手立てとしてこの概念を乱用するのは考えものです。(p.105)

■『「責任」ってなに?』大庭健(講談社現代新書)

倫理学者が責任という概念が社会の中で成り立つ根拠について詳細に検討する。

「責任」という概念は、日々の語感からすると奇矯に響くかもしれないが、第一次的には、人の間にかかわる。「責任がある/を負う」というのは、第一次的には、人間関係の特質なのであって、特定の諸個人の属性や態度ではない。(p.23)

■『責任と自由』成田和信(勁草書房)

■『責任という虚構』小坂井敏晶(東京大学出版会)

■『「自己責任」とは何か』桜井哲夫(講談社現代新書)

■『「自己責任論」をのりこえる―連帯と「社会的責任」の哲学』吉崎祥司(学習の友社)

■『いま問いなおす「自己責任論」』イラクから帰国された5人をサポートする会(新曜社)

■『自己責任論の嘘』宇都宮健児(ベスト新書)

■『共通感覚論』中村雄二郎(岩波現代文庫)

一定の社会や文化という意味場の日常経験に立脚したわかりきった自明の知である「常識」と、人間の五感を統合(コモン)した感覚(センス)から敷衍された普遍的に物事を存在させる地平そのものを捉える常識=共通感覚「コモン・センス」の対比と関係から絵画や文学、時間や空間やトポスの束縛を超越する芸術や知について考察する。そして、主体的・主語的統合である「視覚的統合」をパラダイムシフトして基体的・述語的統合である「体性感覚的統合」を捉えることに新たな文化の展望があることを示す。

ここで要求されるのは、なによりも総合的で全体的な把握、それも理論化される以前の総合的な知覚である。その点からいうと<常識>は、現在ではあまりその知覚的側面が顧みられないでいるが、まさに総合的で全体的な感得力(センス)としての側面を持っている。常識とは<コモン・センス>なのであるから。(p.7)

目次

1 共通感覚の再発見/2 視覚の神話を超えて/3 共通感覚と言語/4 記憶・時間・場所(トポス)/終章/注/現代選書版あとがき/現代文庫版あとがき/解説 私事と共通感覚 木村敏/索引

■『「空気」の研究』山本七平(文春文庫)

「空気の研究」では、日本の明晰な論理的判断ではない絶対権威や同調圧力による意思決定方法である「空気」を日本海軍の無謀な大和出撃、公害問題の言説、西南戦争の報道、「空気の支配」を「ないこと」にした福沢諭吉的明治啓蒙主義の誤ち、戦前戦後の天皇観の変化、言葉や言霊を絶対化しないユダヤ教・キリスト教との比較、日本での民主的多数決原理の問題などを取り上げて分析する。

「空気」とは何であろうか。それは非常に強固でほぼ絶対的な支配力をもつ「判断の基準」であり、それに抵抗するものを異端として、「抗空気罪」で社会的に葬るほどの力をもつ超能力であることは明らかである。(中略)だが通常この基準は口にされない。それは当然であり、論理の積み重ねで説明することができないから「空気」と呼ばれているのだから。従ってわれわれは常に、論理的判断の基準と、空気的判断の基準という、一種の二重基準(ダブル・スタンダード)のもとに生きているわけである、 (p.22)

“KUKI”とは、プネウマ、ルーア、またはアニマに相当するものといえば、ほぼ理解されるのではないかと思う。(p.56)

(プネウマやアニマの)原意は「風・空気」だが、古代人はこれを息・呼吸・気・精・人のたましい・非物質的存在・精神的対象等の意味にも使った。(中略)“空気”のように人びとを拘束してしまう、目に見えぬ何らかの「力」乃至は「呪縛」いわば「人格的な能力を持って人びとを支配してしまうが、その実体が風のように捉えがたいもの」の意味にも使われている。(p.57)

山本氏が言っている「空気」とは、メディアやオーソリティーが発したありきたりなよき(悪き)言葉やイメージのエクリチュールやディスクールに酔って絶対化し再生産・定着してしまう日本人の習性のあり方。また、日本人に共有された非論理的・非科学的で集合的・集団同調的な精神論・根性論やそれらを基底にしそれらを否定することができない理性やコモン・センスと対立する常識(common knowledge)的感覚や思考だと私は思う。精神論とコモン・ノレッジ、形式的思考、マニュアル的思考、事実、現実、知識や情報、それらがそれぞれ整合性のない調和しないかたち、あるいは間違った結びつき方の接続で物事の思考・判断がなされることが日常生活から国家運営まで日本人の大きな問題の一つであると私は考える。

「「水=通常性」の研究」では、「空気に水を差す」の「水」つまり通常性でさえ、日本では聖書の規範やマルクスの必然とは違った日本的情況倫理であり規範には成りえず、全ては相対的な総情況倫理・一億総情況倫理であり「空気」の支配を打ち破るものでなく、間違った過剰な平等主義を生み出し、「虚構の支配機構」を継続させ、むしろ「自由」の拡大に水を差す、自由や情況を拘束するものとなっていることを言説分析する。

「日本的根本主義について」では、日本のファンダメンタリズムは、一神教の神やドグマの絶対化と対立する、ある権威に対する行き過ぎた平等主義に基づく倫理主義、あるいは「家族的相互主義に基づく自己および自己所属集団の絶対化」だとする。それによって、日本人の言論空間は、様々な通常性と解体された体系的思想が混ざったものになっていて、それが表出する言葉は相矛盾するものが平然と併存されている状態になっていると著者は批判する。

目次

「空気」の研究/「水=通常性」の研究/日本的根本主義について/あとがき/解説 日下公人

■『「常識」の研究』山本七平(文春文庫)

『「空気」の研究』のケーススタディ版という様な内容。日本における「常識」の原理的問題には詳しく述べられてはいない。

■『<子ども>のための哲学』永井均(講談社現代新書)

■『コモン・センス 他三篇』トーマス・ペイン(岩波文庫)

■『方法序説』ルネ・デカルト(岩波文庫)

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『エロス身体論』小浜逸郎(平凡社新書、2004)レジュメ

□ 本書の構成
序章 哲学者たちの身体論
1章 「身体として・いる」私
2章 身体は意味の体系である
3章 性愛的身体
4章 働く身体・権力と身体
5章 死ぬ身体
序章、2章を取り上げたい。
■序章 哲学者たちの身体論
・哲学者たちを、悩ませてきた身体と心に関する問題を簡潔に表現すると、以下のようになる。「「私の身体」は、物的実存として、いわゆる「客観的・自然的な」世界にはめ込まれ、世界のほかの事物と何ら変わらないかたちで対等に関係している。にもかかわらず、それは、それとの対概念として立てられているはずの「自分の心」や「自分の精神」とある特権的な仕方で結びついている。その独特のあり方、論理的には矛盾しているように見えるあり方を、どのように記述すればよいか。」
哲学者がこの問題を考えてきたのは、人間社会のやっかいさ、争い、葛藤、誤解、不条理、信念の対立などの源には、人間というものが単に個別の身体を「それ自体として」充足すればすむ存在ではなく、たがいに「心」という個体を超越したはたらきを交わし合って生きる存在である、という理由がある。
・「身体」と「心」にまたがる微妙な領域について考えるには、「情緒」がキーとなる。情緒とは、身体の内外に起こる事象が直接的・非反省的に主体の意識表現となったもののことであり、私と世界との「開かれ」が、主体それ自体にとっての<問題>として実現する事態のことである。
■2章 身体は意味の体系である
・私たちは自分の身体に、ただの「対象」とも「精神そのもの」とも違う。ある序列、秩序の感覚とおぼしき複雑な「意味の体系」を無意識のうちに張り巡らせ、そのようにして了解された身体を生きている。
1.身体の機能的な意味
①身体は、生理機構あるいは内的システムである。
・この身体像は、身体を客観的な視点から一つの「物質的対象」「物質的過程」とみなす、例えば、理想的な医学的・解剖学的な身体像である。
しかし、この身体像は、身体の所有者である「私」の感覚的な意識によって直接には自覚できない。(ex.消化器・呼吸器の働き、視細胞内の物質的反応)私たちは生命機能として活動する身体を「忘れる」ことによって、正常な身体、健全な身体であり得る。
②身体は、主観的な世界イメージを成立させる座である。
・身体と心とにはっきり分節できない全心身の、世界への「気遣い」「配慮」「関心」は、「主観的なイメージ世界」を成立させる。それは、視覚的な世界だけでなく、周りの世界はこんなふうであるという、全体的な「感じ」のことであり、「情緒」が入り込んでいる。主体は、情緒と知覚が不可分一体に結合されたものとして世界イメージを経験する。
③身体は、外的世界との関係を変更する手段である。
・事物世界に対して、私は自分の体を動かすことができ、対象と自分との関係を変えることができる。身体が外的世界との関係を変える手段であることによって、私は主観的な世界イメージを、多面的で豊かな、重層的なものにすることができる。
・主観的な世界イメージは、私に直接与えられたものとしては絶対的なものであるが、他者との関係においては相対的なものである。
ある事象表象や場面表象が思い浮かべられるということは、想像世界における事象表象や場面表象に「私」が身体として居合わせていることを意味する。私たちは、身体運動の経験の記憶と、知覚が本来的に持つ可能性予示の力とによって、他の視点や立場に「身を移す」という想像的あり方を教えられるのである。そのことによって、「客観的世界イメージ」を持つことができる。それは私たちが身体を動かすことを通して自分と世界の関係を変更してきた経験の記憶に支えられている。
2.身体の人間関係的な意味
④身体は、他者との関係における相互認知、相互交渉の手がかりである。
・私たちは、身体として存在していることによって互いに相手の存在を特定の相手として認めることができ、それに基づいてあらゆる人間的な交渉を試みることができる。
人間世界で、私という存在の中心性の意識を獲得するためには、私の内発的な身体表現が、他者たちの内に効果を及ぼさなくてはならない。そのためには、私の身体が、他者から、ここに同類がいるという承認のまなざし、扱い、関心、配慮を受け取らなくてはならない。そこから自他の区別の意識が生まれ、私の身体が私によって統合された意味の体系をなしており、他者の身体は私固有の統合からはみ出す存在であるということが会得される。その会得は、身体による「感覚する主体」「情緒に寄り添われている主体」「考える主体」などの具体的で豊かな自己確信=世界信頼によって満たされている。
⑤身体は、エロス的な関係の価値を創造したり維持したり破壊したりする目標である。
・身体を動かすにたる意味や価値あること、つまり「真実」らしく思える事柄への「信頼」を支えているのは、直接的な知覚以外では、人間同士の関係である。人間同士の関係は、エロス的な関係と社会的な関係に分けられる。
エロス的な関係とは、個別的に限定された相互認知と相互交渉の関係である。主体は、ひとりの相手の身体と人格を、まさにその特殊な身体と人格の持ち主として直接に受けとる。
その特徴は、
⑴互いに相手に対して、自分の身体が名前を付けられて示され、しかも、かくかくの名前の持ち主であるという意外に付随する社会的肩書きや役割などについてさしあたりどうでもよい。
⑵おのおの「この人」として感知し、把握するほかなく、他の人と入れ替えることのできないような関係である。
⑶その相手を気にしあうことそのものを「目的」として振る舞う関係である。
この関係において働いている原理は、「情緒」である。
社会的な関係とは、一般的な相互認知・交渉の関係である。それぞれが一定の役割を担うかたちで結びつき、たがいに相手を自分の欲求や意志や行動を満たすための「手段」として感知し、そのような存在として振る舞う。結びつきを根拠づける身体や人格の実質は、「この人」でなくてもよく、ときには入れ替えることができる。この関係において働いている原理は、「利害に基づく合意」「権力」である。
・私たちの「心」「内面」「本心」と呼ばれるものは、重要な意味をもつ「情緒的な開かれ」を表している。「心」や「内面」というアクティウ゛な「知情意」の働きは、この世界に身体として存在する自分の処遇を巡るものであると同時に、他者に向かって様々な「意味」の場を開く。ひとりの心の働きは、彼の専有物ではなく、他者にとってそれが「わかるかわからないか」という問題となる。
「わかる」とは、問題となっている事象を、身体として存在する主体みずからがその世界参入の具体的な態度として自分に結びつけたということであり、主体の振る舞い方についてのある「身構え」がセットされたということなのである。「わかる」とは、身体と存在する私のこれからのあり方を、情緒のはたらきを通して、人間の関係世界の中に方向付けることである。
「わからない」それは、「わかる」=「たがいがたがいを関係づけることによって生を構成する」という営みの否定態である。その条件には次の5つが考えられる。
⑴身体が機能不全をきたしている。
⑵情緒的な共感には限界がある。
⑶言語には制約がある。
⑷経験が不足している。
⑸<心>が身体像の安定度や不変性に比べると相対的に自由であり不安定である。
「わからない」に遭遇することは、「わかる」あるいは「わかろうとする」人間の営みにとって必然的である。このことを踏まえることが「わかろうとする」本来的な欲求を少しでも満たすために重要である。
・「情緒」とは表現であり、もともと間身体的なものある。状況が共有される複数の身体の間では、情緒も非反省的な仕方で共有されている。何気ない生活上のやりとりが支障なく運ぶのは、情緒の共有としての「わかり」が成立しているからである。
情緒の共有としての「わかり」は、ことにエロス的な身体関係において、特殊的で排他的で細やかなものとして展開される。恋愛関係や夫婦関係は、独特の交錯空間を作り、言葉の媒介を必要としないでそれぞれの主体の時間意識の同調の場が成立する。意識であるはずの情緒が、限りなくひとつの身体そのものに近づいて、完璧にちかい「わかり」が成立している。
・社会的関係やエロス的関係を構成するのに意義をもつのは、④と⑤である。健康で、周囲の物事の感知力にすぐれ、運動能力に長けていことは、①②③の意味体系を満たす。だが、それだけを取り出しても人類社会が認めている人間としての価値の総体には結びつかない。これらを基礎として、④や⑤の意味体系を通しての活動が実現するところで初めて人間的な価値がはかられる。
私たちは、身体として存在するだけでいつも人間世界に参入しており、様々な意味と価値の表現態として相互に自分をあらわしている。自分がどのようにエロス的な他者や社会的な他者から承認され、どのように自己了解、自己承認を組み上げるかという問題は、時代を超えて普遍的である。
□ゼミ論では…
『ソニック・エティック—ハウス・テクノ・グランジの身体論的系譜学』陣野俊史、『魂の労働 ネオリベラリズムの権力論』渋谷望、『ちぐはぐな身体 ファッションって何?』鷲田清一、『働かない身体 新福祉倫理学講義』鷲田小弥太などを参考に、クラブでダンスすること、裏原の若者、ニートなどから、現在の若者の身体性について考えたい。