『双書 哲学 「死」を哲学する』中島義道(岩波書店)
日本で最も死を怖れ、死について真摯に考えている哲学者の死についての連続講義。
逃れることのできない「私」あるいは「自己」の切実な問題としての死のあり方から出発して、著者の専門である時間論から死を考察し、そこから生前/死後、自己/他者で分断されざるをえない死の性質について述べる。さらに「不在と死」の違いや関係、「純粋な無」としての死のあり方といった形而上学的・存在論的考察をする。そして、死後にも私の意識が存在するかもしれない論理的可能性、他者との壁や言葉の限界や無それ自体を超越する死による救いの可能性について述べる。
「第1日 死と人生の意味」死と人生の意味の全体的基礎的問題を提示する。すべての人はいつか死んでしまう。人類も地球も宇宙もすべて消滅する時が必ず来る。それなら喜びや苦悩も含めて人生に何の意味があるのだろう?著者にとっての死への恐れとは単に無になるというよりも、私は無であったのに、永遠の時間の中の一瞬の間だけ存在して、また永遠に無になるという残酷なあり方に対する虚しさだという。人生の確固とした意味を獲得するには、人はいつか死に人類も無になるという無意味さの「構図」の中に留まりながら無視をするのでもなく、そこから出るのでもなく、その構図そのものを徹底的に探究する必要があるとする。
「第2日 死ぬ時としての未来(1)」「第3日 死ぬ時としての未来(2)」未来が予測的できないこと、存在を証明できないことの形而上学的問題を時間論を用いて説明する。私は死ぬ時としての未来は、「私の死」が概念として完全に無ではないことと関係して新たな問題として浮上する。
「第4日 私の死・他人の死」言語という記号で体験する行為は他者のそれとは同じとは限らない。概念で共有される家族的類似性の範囲での同一性でしか理解できない。死は最も自分と他者の体験の差異性を実感するものである。私の死が恐ろしいのは、無になるからではなく、ハイデッガーの言う「追い越し不可能性」によって、他者の死を認めることができるのとは違い、それを確認することができないところにある。
「第5日 不在と死」は、基本的には死は完全な不在ではなく完全な無であるとする。不在は、あるものがいなくなった先の「どこか」という場所との関連で決まり、不在には「不在を確認する視点」が必要である。死後も私は想起をする機能があれば私は無でなく不在である。死後も神のような絶対的な他者の視点で私の体験を想起できる可能性があるかもしれないと言う。
「第7日 「無」という名の無・死の超克」私の死は、それが起こっても、確認するという現在を持たない対象である。私の死とは、永遠に超越できない他者としての他人ではなく、現在から溯って確認できる他者としての未来でもなく、両方の性格を持っている。私が死ぬと、私は私と他者との壁を打ち破って無それ自体へ超越し、言葉の境界を越える。
カントを中心として、ハイデッガー、ヴィトゲンシュタイン、サルトル、メルロ=ポンティなどの知見を用いて死の性質や構造、意味を形而上学的・存在論的に様々な考察を展開する。哲学的・形而上学な意味での死の構造を記述し、現代では省みられなくなった形而上学的な死そのものの本質やその死後の可能性に迫っている。一つの形而上学的な死の哲学的考察を知りたい人に推薦する。
目次:第1日 死と人生の意味/第2日 死ぬ時としての未来(一)/第3日 死ぬ時としての未来(二)/第4日 私の死・他人の死/第5日 不在と死/第6日 「無」という名の有/第7日 「無」という名の無・死の超克
『死の哲学』小浜逸郎(世織書房)
保守派評論家の著者が哲学や死の思想、小説などを引用しながら、人間の死というもの、現代の死の問題について考察し独自の意見を述べる死の哲学の講義録。
「第一講 死のイメージ 身体論」では、死をそのイメージの問題(死に対する見方・考え方)として考える。現代では、科学の発展や世俗化によって死は形而上学的な思考、宗教的な霊魂の不死の問題といった関心を失って、愛や記憶も含めた全体的な身体性の消失の問題になっていると考察する。そして、私は死についてその身体性の問題としてしか考えれれないし、考えていかなければいけないと指摘する。
「第三講 共同性と死 共有論」では、個体の死を生殖と同じプロセスだとし、超個体的な意志の表れの一つだとしたショーペンハウアーの死に対する思想を、自然主義やリアリズムによる実存主義的なものだと批判する。次に、死は非連続的な人間がエロティシズムとして連続性を実現する意味を持つとしたバタイユの考察を批判的に検討し、死は人間の生活を規定するものだが、エロス性は限界状況ではなく日常的な生活や交流の中に存在し、時にやって来る親しい人の死は他者との非連続性を自覚させそれを超える契機をもたらすことに意味があるとする。
「第四講 日常性と死 孤独論」ハイデッガーによる死の考察、現存在の「先駆的決意性」や「死の追い越し不可能性」について紹介し、覚悟性を忘れたダス・マンの頽落、現存在の非本来的なあり方、死の隠蔽、気安め、また、それらが却って日常での死への関心となっているというハイデッガーの死の考察の独自性を述べる。しかし、この考察にはキリスト教的倫理観や倫理の自閉性があり、日常性を価値の低いものと見做していてダス・マンの日常の生を肯定できないものになっていると違和感を述べる。翻って、死の認識は人間が共現存在であることを確認するものであり、死による有限性の自覚がポジティヴな人間の生の条件や動機になっているとする。
「最終講 私たちは死をどう生きているか 情緒論」私たちはまたに死に対する不安を感じながらも日常生活の仕事や雑事に追われてそれを忘れてしまうというように「生に対する懐疑的な感情」と「生への本能的執着」の二重性を生きている。その矛盾した構造を人間は生きなければいけないという自覚が重要である。私たちは死を引き受けながら、来世に救いを求めたりニヒリズムに陥るのではなく、情緒や性愛関係という共同的な営みによって死を含めた個別性を超克するという形で現世や生命を肯定していかなければならない。
筆者は実存主義的な死の認識や死への絶望を基礎にしながらも、死への不安、死の個別性や非存在性を乗り越えて、共同性やエロティシズム、生きる動機を得るためのものとしてポジティブに生を生きていくための倫理学的なレベルで生の日常の実感としての存在論的な問題としての死についての普遍的な論理を探る。一つの死の考察として十分に価値のあるものだが、しかし、私にはハイデッガーやバタイユの考察と何が決定的に違うのかよくわからない。
私たちの生はたえず死によって見つめられている、そしてそのことを私たち自身が、無意識の領域も含めて、心身の総過程をあげて、あるわかり方によってつかみつつ自らの生の運動を組み立てている、そういう意味で、人間にとっての死とは、一種の知の力だと言えるのです。人間の固有の死の自覚のあり方、死を知っているというあり方が、むしろ生の条件をかたちづくることになる。そういうものとして死を理解することが大事なのではないかと思うのです。(p.191)
目次:まえがき/第一講 死のイメージ 身体論/第二講 家族と死 共有論/第三講 共同性と死 共有論/第四講 日常性と死 孤独論/最終講 私たちは死をどう生きているか 情緒論/あとがき
『人はなぜ死ななければならないのか』小浜逸郎(洋泉社新書y)
『癒しとしての死の哲学』小浜逸郎(洋泉社MC新書)
『死とは何か さて死んだのは誰なのか』池田晶子、わたくし、つまりNobody編(毎日新聞社)
池田晶子さんの未発表原稿をまとめた本であり、「死」について書かれている部分は多くはないが、「長生き万歳?」「人生は量ではなく質」「死とは何かーー現象と論理のはざまで」で池田さんの死に対する考え方のエッセンスが書かれている。「先に死があることによって人生は充実する」「人は死を体験できない、それはわからない、また死によって私は存在しなくなる、つまり無になるのだから、死を恐れることはない」「自然、宇宙、存在、自分の謎について考え、生死を超えた「語りえぬもの」に近づくこと、信仰すること」などである。死の認識と死を想うこと(メメント・モリ)は大切だが、死と死によって無になることを恐れ、それを忘れないこと、その観点によって物事を考え生きていくことが大切だと私は思う。
他には、池田さんの哲学の主要テーマである「哲学して生きることの意義」「コンビニエントな技術・情報社会への疑問」「宇宙の中の存在としての自分とその魂が存在することの謎」「自分の言葉によって考えることの意味と価値」などが扱われている。
死を恐れる理由はありません。生命は有限であるからこそ、価値がある。もしも、生命が無限になれば、価値もなくなるはずです。生命に執着することは、生命が有限である限り、人を不幸にします。人生の意味と無意味は、人生の意味と無意味を徹底に考え抜くことしかない。死とは何かを考え、自覚的に生き、死ぬしかないと思います。(pp.25 – 26)
『人生の哲学』渡辺二郎(角川ソフィア文庫)
「I 生と死を考える」では、哲学と人生の根本問題としての死と生を哲学的存在論的な次元の問題として考える。生と死をセットとして考えることに特徴であり、死を無になることだとしたエピクロス、「死へ向かう存在」としての現存在の自覚が本来性だとしたハイデッガーを基礎にしながらサルトル、モンテーニュ、ヤスパースの議論を挙げて批判的に考察し、ポジティブな生の契機としての死のあり方の可能性を述べる。
「II 愛のふかさ」では、まず、人生の形式と力、その目的が神となるフィヒテの愛の概念、実存へ生命への覚醒を呼びおこすものとしてのハイデッガーの良心の概念を紹介する。次に、すべての世界や生命を尊重して善く生きたいと願う源としての広義の愛の概念を考える。人生には苦悩や挫折があり、底に暗い「情念」があるからこそ愛が花開くという。
「IV 幸福論の射程」では、まず、幸福にはその基礎条件としての「安全としての幸福」、自己超克や理想と価値の実現としての「生きがいとしての幸福」だけではなく、理性信仰によって得られる、存在が与えられたことと生命の美しさ、そして、その美しい存在である他者との心の理解に目覚め感じる「恵みという幸福」の3つがあるという。次に、「社会的儀礼の勧め」であるアラン、「外向的活動の勧め」であるラッセルの幸福論を紹介し、それらの優れた点と疑問を述べる。 しかし、アランとラッセルの幸福論は楽観論であり、不幸や苦悩に充分に対応することはできず、「内省と諦念の勧めである」ストア派とショーペンハウアー、「揺るぎない信仰の勧め」であるヒルティと三谷隆正の幸福論の要点を紹介し、それらの方に幸福論としての正当性があるとする。
「V 生きがいへの問い」人生の充実と肯定の問題であり、以上に取り上げてきた議論も含めて人間の全てに係わるものとしての生きがいの問題について考える。しかし、真の生きがいを得るには自身の充実と幸福だけではなく、人倫を尊重し、現在の時代状況を注視しながら、ヒューマンな社会が実現されるように一定の参加をしなければならない。そして、第二次世界大戦後でありグローバリズムの時代である現代において、私たちは意志と知性、実存と理性が結びついた豊かな展望を持って「良心的ヒューマニズム」の立場に立って、態度決定やそれなりの政治参画をし、また各自の使命や役割における生きがいの達成のために人生を生き尽くさなければならない。
主にハイデッガーとヤスパース、サルトルの実存主義とドイツ系の哲学とくにドイツ観念論、カント、フィヒテ、シェリング、ヘーゲル、そして、プラトンやエピクロス、エピクテトス、セネカと言った古代哲学や文学、ギリシャ神話、キリスト教、仏教などの幅広い知見を用いて生と死、愛、幸福、生きがいといった「語りえぬ」の人生の問題について深く追及していく。(筆者がそのように考えているかはわからないが、)宗教、特に一神教に替わるものとして、人生の意味や価値、肯定、倫理、救いを与えてるものとして哲学を扱い、そういったものとして哲学を考え、普遍的で大きな広義の生と死、普遍愛、幸福、他者・社会との関係性構造、人生の意味の構造を描き出していく。「語りえぬ」ものを語っているからこそ、全体はドイツ観念論的なキリスト教的色彩を帯びていて、哲学的根拠のある「宗教的なもの」、語りえぬものを語り、言葉によって言葉を超えていく、宗教に替わるものとしての哲学のあり方や価値を人間のLebenの問題の範囲の中で徹底的に追及している。
真摯で熱意を感じる本であるが、考察の前提やプロセスの部分で教科書的に(この本は元々、放送大学のテキストだが)良きこと・善きことを決めつけているところやコモンノウリッジで考えているところ、その決めつけによって説明を省いているところがある。その一方で、教科書的という範囲を超えて、理想主義的、精神論的、ポジティヴィズムによる記述や表現がある。その意志や情熱を保持しながら、哲学的思考や哲学的真理に基づいて「正しく」人生の構造的普遍的課題を認識して、「良心的ヒューマニズム」によって現代人が本当によく生き充実した生活を送るための思想をこの本は示している。
とりわけ、そのように生死に捕われない悟りの境地が、どのようにして、葛藤と矛盾に充ち充ちたこの現実世界のなかで生き方の具体的な形成原理を提供しうるのかが、問題である。むしろ反対に、生存への執着をとことん突きつめ、それを徹底してゆくことによってこそ、それを乗り越える境地が開かれうる、ということもまたあるのではないであろうか。生死に捕われないといった、寂静や解脱や悟りでなく、むしろ反対に、死にさらされた人生の現実の分裂と対立、苦悩と葛藤を直視し、それを徹底して引き受け、そのなかで踠き、苦闘することをとおして、人生を積極的に戦い抜いてこそ、自己の存在の本質と限界を知りえ、おのれに達しえざるもののあることをも率直に承認し、こうして泰然自若の諦念において、有限な人生に肯定し、従容として死をも受け容れることが可能になるということも、またあるのではないであろうか。(p.31)
目次:I 生と死を考える/II 愛の深さ/III 自己と他者/IV 幸福論の射程/V 生きがいへの問い/単行本版 まえがき/付録「研究室だより」人生とは何か/解説 人情あふれる哲学教師としての渡邊二郎 森一郎/人名索引
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