哲学・現代思想 初心者初学者に推薦する入門書と哲学的思考・哲学史ブックリスト

哲学入門書

『哲学のすすめ』岩崎武雄(講談社現代新書)

現代社会での日常や仕事の実生活の中で哲学を知ることの意味、プラクティカルな科学的知識との関係と対比における哲学の価値である原理的な価値判断、現代の無反省な生活の中で忘れられたただの快楽ではない主体的な幸福の必要性、といった哲学の根本的だが実践的で高度な問題を平易な文章で提示し哲学者たちの議論を用いて説明する。すべての人に勧めることができる哲学の入門書であり、1966年の出版から増版が続いている講談社現代新書の発行部数ランキング10位のベストセラーである。哲学の価値と意義を真摯に説く、最も優れた本物の良き啓蒙書・「啓発書」。

われわれの生活を規定する人生観において問題となる価値判断は、まさにこの原理的な価値判断です。それは。われわれがいかなる生き方をすべきか、ということを決定する根本的な価値判断だからです。したがってそれは科学から導くことができないのです。(p.49)

目次

まえがき/1 だれでも哲学を持っている/2 科学の限界はなにか/3 哲学と科学は対立するか/4 哲学は個人生活をどう規定するか/5 哲学は社会的意義をもつか/6 哲学は現実に対して力をもつか/7 科学の基礎にも哲学がある/8 哲学は学問性をもちうるか/9 人間の有限性の自覚/むすび

『自分を知るための哲学入門』竹田青嗣(ちくま学芸文庫)

前半では、筆者の青年時代の挫折経験から文学と哲学、とくにフッサールの現象学に出会い独学で学んだ経緯と、哲学が自身の思想の経験としてどんな意義があったのかを述べる。後半では、アリストテレスやデカルト、ヘーゲルへの批判に見られるような現象学を中心とした筆者独自の観点によってギリシャ哲学から現代哲学までの哲学の流れを概観する。そして、現代思想の相対主義、アンチヒューマニズム、不可知論といった問題を指摘し、特に現象学と実存哲学にある人間が豊かな生を生きるための言語ゲームとしての哲学の価値を提示する。

わたしによく理解できたのは、まず、生き方の最終的な「真理」などというものは原理的に存在しない、ということだった。しかし、その代りに、哲学が、自分に自身に対する自分の了解の仕方を大いに助け、それは生を豊かにするようなものだ、ということもよく受け取れた気がする。(P.26)

目次

1 哲学”平らげ”研究会/2 わたしの哲学入門/3 ギリシャ哲学の思考/4 近代哲学の道/5 近代哲学の新しい展開/終章 現代社会と哲学

『現代思想の冒険』竹田青嗣(ちくま学芸文庫)

筆者はまず、思想や哲学を学ぶこと持つことの意義を「世界像を持つこと」ととしてその意味を世界について考え価値の関係像を作り、またそれを編みかえることだとする。(序)次に、資本主義体制を批判し、理想的な共産主義社会を実現することを目指すための革命の必要を訴えたマルクス主義の戦後世界における挫折とそのインパクトそ振り返る。(1章)マルクス主義崩壊やモダニズムへの不審の状況を反映する現在、流行の思想である構造主義とポスト構造主義、ポスト・モダニズムの内容や主張を丁寧に整理し、独自の観点から価値の差異の体系の認識の限界、言語や思想自体への懐疑、社会改革の不可能性といったそれらの問題点を指摘する。(2章)現代思想の批判対象であるデカルトからヘーゲル、マルクスまでの近代哲学を概観し、その功績と一方での主観/客観の一致に対する解決方法、理性中心主義といった問題について考える。(3章)反=ヘーゲルの思想であり、現代思想のルーツとなったキルケゴールの実存思想とニーチェの反形而上学について述べる。(4章)主観/客観の認識問題を別の角度から解決し、新たな真理概念や言語による了解の可能性を示すフッサールの現象学について説明する。(5章)フッサールの現象学を継承し、世界の中での個人の実存の問題としての哲学を展開したハイデッガーの実存論を解説する。(6章)フッサールやハイデッガー、バタイユの思想を敷衍して独自の欲望論、エロス論の構想を述べる。(終章)

<実存>とはいわば常に人間にとって現われ出る「存在可能(性)」のことだ。欲望の意味とは、だから、人間が限定された自分の生活空間や生活様式から脱け出て新しい「生き得る」(存在可能)を開いてゆくとき、そのつど味わわれるエロス性をさしている。しかしハイデッガーやキルケゴールによれば、この欲望のエロス性はまた、絶えず「絶望」と「孤独」につき戻されるような限界を持っている。こういう円環が人間の生のかたちのいわば基本型なのである。(p.222)

目次

序 思想について/1 <思想の現在>をどうとらえるか/2 現代思想の冒険/3 近代思想のとらえ返し/4 反=ヘーゲルの哲学/5 現象学と<真理>の概念/6 存在と意味への問い/終章 エロスとしての<世界>

『中学生からの哲学「超」入門』竹田青嗣(ちくまプリマー新書)

まず、筆者は若い頃の挫折経験から文学、フロイト精神分析、そして哲学に出会った経緯と世界理解としての哲学の意義を述べる。次に宗教との違いから自由と欲望の相互承認としての哲学の価値について説明する。なぜ社会に法律やコードが存在し、それにどんな意味や問題があるのかを哲学的考察によって述べる。最後に筆者が構想する欲望論の実践篇によって現代社会・資本主義社会の構造を簡潔に考察する。記述は平易に書かれてはいるが大人でも内容の理解が容易ではない、現代を生きる問題としての哲学を語った入門書。

哲学って何だと聞かれると、いろんな答え方が思い浮かびます。私が気に入っているのは、それは「自分で考える方法」だ、というものです。これにつけくわえるなら、とくに自分自身について自分で深く考える方法、それが哲学のエッセンスだ、と言ってみたい。(p.60)

『人生論ノート』三木清(角川ソフィア文庫、新潮文庫)

幸福や懐疑、習慣、虚栄、人間の条件、孤独、利己主義、健康、秩序、感傷、娯楽、希望、旅など様々なテーマについて、考察と批判、虚無や矛盾の認識によって人生のあり方や意味とは何か、現代人はいかによく生きるべきかを表す哲学倫理学エッセイ集。この本は太平洋戦争直前の1938年から1940年にかけて書かれ、それだからこそ、善きことや現代的生活への冷静だが強い意志が溢れている。記述は容易ではないが、何度も読み返し、理解を深め、考え続けることによって批判を含めた生涯の糧や指針となる名著であり、新潮文庫版は100版以上を重ねるロングセラー。角川ソフィア文庫版に付属する「語られざる哲学」は、若き筆者が語られざる哲学=懺悔によって自らの生活や学問に対する態度の中の傲慢や虚栄心、利己心を徹底的に批判・反省し、真理を尊重する謙虚で剛健な哲学者として生きる決意を示す。

虚栄は人間的自然における最も普遍的なかつ最も固有な性質である。虚栄は人間の存在そのものである。人間は虚栄によって生きている。虚栄はあらゆる人間的なもののうち最も人間的なものである。(p.44)

『哲学入門』三木清(岩波新書)

戦前から増刷が重ねられている岩波新書のロングセラーであり、哲学入門の名著。本書は通常の哲学史・哲学説解説書ではなく、筆者が一から新たに考え書き起こす、究極のものの一つである西田哲学の試論である。ひとつの哲学のプレゼンテーションによって哲学入門者に哲学の思考法や概念、体系を示す。

「序論」では、哲学の基礎になる概念について考察し、哲学の定義について述べる。「現実」は哲学の基底と前提になる場であり、それを常に自ら反省し続けることが「哲学の無限定性」でなけれらばならない。「人間」(主観)は「環境」(客観)という場に存在し、環境を客観として扱うことで「主体」として成立できるが、一つの客観なものでもある。主体は他の主体も自身も主体として扱うことができる。「経験」は日常において環境についての知識を得ることであり、主体と環境との行為的交渉として現れ、元来、能動的でも受動的でもある行為的なものである。経験が行為の形として形成され習慣化したものが「常識」であり、日常的・行為的知識であり、有機的なものであるが反省的性質はない。「科学」は常識を超える批判的で先取的なもの、理論的知識であり、合理性と実証性の統一である。科学には自身の基底に対する批判はないが、因果性や時間、空間など科学の前提とするものの根拠を明らかにするものが「哲学」である。また、物理、生物、心理などの分野を隔てず統合し、物の意味・目的である価値を問うのが哲学である。常識の情意的世界観と科学の客観的世界像を媒介する歴史的現実の論理、全体的人間の学が哲学である。

「第一章 知識の問題」では、まずカントやヒューム、ウィリアム・ジェイムズの認識論が検討され現象としての認識について考察をする。「物」とは、古代哲学の概念である、一定の性質と量、関係をもった実体である。「関係」とは近代哲学の概念であり、物を諸関係に分解し関係概念、函数概念によって認識にしたものである。「形」とは実体的でも関係的でもあり内容と表面、一般的なものと特殊なものが統一された表現的なもの歴史的なもののことである。また、知識は歴史の中で捉えられなければならず、アプリオリな真理をただ発見するというものではなく、相対と絶対の統一であり創造的発明的なものである。知識にも倫理があり、「真理への意志」があり良心的であることが求められる、物は認識という形成作用によって真の存在と価値になるからだ。真理は表現的なものとして我々を動かし、自己と世界を実践的に変化させ、そこからの認識は実践的な形成作用によって真に表現的なものになる。

「第二章 行為の問題」では、実践哲学、道徳哲学あるいは倫理と呼ばれているものについて考察する。道徳は主体の主体に対する行為的連関のうちにある。また、我々が自己が自己に対する関係だけではなく、我に「汝為すべし」という命令をするところに道徳の自律性がある。その主体と主体の関係によって生起するものが道徳の真理である。人間は本質的に表現的なものであり、道徳も歴史の中で世界に作られ・作られるものである。徳は活動であり、徳のある活動をすることによって徳のある人間になることができる。技術的徳と人格的徳を併せ持った人間が自身のいる社会を自発的に善くしていく義務がある。道徳的行為の目的は「善」である。善は快楽や幸福ではない、カントの厳粛主義の定言命法に基づく「心情の倫理」によって行為のうちに歴史の中で客観的に表現され客観によって科学的に認識されるものでなければならない。

内容は難解だが、本書は、筆者の真摯で理性的な現実的で実存主義的・プラグマティズム的・弁証法的な社会哲学の試みであり、個人の主体と他者、主観と客観、存在と概念、常識と科学、社会と生活、職業と芸術、技術と人格、道徳と行為などを定義し全てを統合する一つの哲学・倫理学の統一原理の追求である。時間を置いて読み返すことでそれぞれの節で新たな問題を発見できる。(『哲学入門』というタイトルですが、通常の哲学入門書ではなく、難解な一つの「哲学書」なので、初心者におすすめすることはできません。)

哲学の論理は根本において歴史的現実の論理でなかればならぬ。哲学はどこでも現実の中になければならず、その点において常識を否定する哲学は却って常識と同じ立場に立っている。哲学は科学の立場と常識の立場とを自己に媒介することによって学と生との統一にある。(p.69)

目次

序論(1 出発点/2 人間と環境/3 本能と知性/4 経験/5 常識/6 科学/7 哲学)第一章 知識の問題(1 真理/2 模写と構成/3 経験的と先験的/4 物 関係 形/5 知識の相対性と絶対性/6 知識の倫理)第二章(1 道徳的行為/2 徳/3 行為の目的)

『生きることと考えること』森有正(講談社現代新書)

パスカルとデカルトを専門とする哲学者がパリでの20年の生活を経て得た自己の経験や哲学、生活術を、入門編としてデカルトの『方法序説』のように知的自叙伝として述べる。

本書の中心となるのは、パリでの「経験」と「感覚」という概念への目覚めである。情意の影をおびた関係や豊かな人間交渉を生み出すパリでの「感覚」の目覚め、それは、私とものがつくり出す「感覚」や「経験」は自然や世界によって与えられた物であるということであり、筆者の言う「感覚」とは、感覚が感覚においてわれわれが生きていることの全てがあらわるものだということである。風景や家が単なるモノから生きがいや意味を与えてくれるものとなること。その「感覚」が豊かになり成熟し一つのことばとして表すことができるのが「経験」である。そして、定義される「ことば」と定義する「経験」を、経験を超えながら反省し結びつける力が「精神」だとする独自の現象学的・実存主義的思想が述べられる。

次に、その独自の哲学によって自身の半生が豊かに解釈されて述べられている。一方で、哲学や文学、音楽とそれによる内省が豊かな経験と感覚をつくり出すという。そして、「よく生きる」とは「よく考える」ことであり、「よく考える」とは「よく生きる」ことであり、現実と言葉が結び合って自分の「経験」を織り成しながら生きるということである。

1970年より重版を重ねる講談社現代新書の歴代発行部数24位でありロングセラー。当時のティーンエイジャーや若者によく読まれた哲学入門・哲学エッセイの名著。一般的な哲学入門書ではありませんが、生活と結びついたひとつの哲学的思考を教えてくれます。

 その意味で、ことばをほんとうに自分のことばとして使うということが、実はその人が本当に生きるということと一つになる。ほんとうに生きることによって、個的なものと普遍的なものとが、自分の名前を与えるという決定的な行為において、自分の中の経験に結びつけられて普遍的なものとなるということです。(p.84)

 人間にとっては「生きること」と「考えること」を離すことは事実上できません。つまり、「よく生きる」ということは「よく考えること」、「よく考えること」は「よく生きること」で、この二つは離すことができない。私はそう思うのです。(p.190)

『ヨーロッパ思想入門』岩田靖夫(岩波ジュニア新書)

ギリシャ思想と一神教の源流となったヘブライ思想という二つのものの影響を基礎として実存主義までの哲学の流れとその核心を述べるユニークだがまっとうな哲学・思想入門書。

第一章「ギリシャの思想」では、コスモスという宇宙の秩序や法則から普遍的な本質を求めるギリシャの理性主義を芸術や悲劇、ギリシャ哲学から考察する。ギリシャ思想において重要なのは、個人の自由や感情ではなく、神々を理想とした宇宙の中での普遍的なもの、理念的なもの、最高で永遠の美である。第二章「ヘブライの信仰」では、ユダヤ教とキリスト教の歴史と思想を紹介しその特徴を述べる。神は無からの創造を行い、言葉を与えることによって世界を創った。神の絶対的超越性を受け入れ自己の運命の苦難をどこまでも受苦し、また、どんな他者に対しても自己を捨て、神の原理である愛を与えづづけることが善き生き方である。第三章「ヨーロッパ哲学のあゆみ」では、中世哲学から実存主義まで、哲学が、ギリシャ的な理性や理念とその自然観、一神教の神の絶対性とそれに対する生き方や神の存在根拠と性質、くわえて現実の社会やその発展の問題、それらの調和や相克を考察すること、それらを統一する原理あるいは超克する原理を見出そうとすることで展開してきた歴史が述べられる。そして、最後にユダヤ思想とハイデッガーの実存主義を結びつけ独自の神学的現象学的実存哲学をつくったレヴィナスの哲学が紹介される。

岩波ジュニア新書ですが、日本では少ない、ギリシャ思想と一神教のコアとなる考え方を簡潔に説明し、その二つをベースにして哲学を解説した比較的高度な内容の本で、大人であっても読み応えがあります。250ページのヴォリュームがあり文字は岩波ジュニア新書としては小さめです。

『方法序説』ルネ・デカルト(岩波文庫、ちくま学芸文庫)

デカルトの知的自伝であり、ラテン語ではなく口語であるフランス語で、一般の読者のために書かれた哲学入門書。第1部では、学生時代の経験から理性に基づいた確実な真理を求める哲学を学ぶ意志を持ち、書物の学問を捨て世界から学ぶため旅に出る決意をした過程を述べる。第2部では、ドイツの炉部屋に滞在している時に発見した4つの真理発見ための規則について述べる。第3部では現実の世界を生きる3つの道徳規準について述べ、旅を終え、オランダの都市に隠れ住み哲学に本格的に取り掛かると述べる。第4部は、後に『省察』で詳細に記述される、「ワレ惟ウ、故ニ我アリ」で有名なコギト命題とそこから導かれる神の存在証明と形而上学について述べる。第5部では、デカルトの構想する物理学、天体学、光学、生物学について簡単に記述する。(当時は理学・工学・医学などは哲学の一部や発展形。)第6部では、ガリレオ事件に対するリアクションとして哲学と科学的研究の真理性と正当性について述べる。

近代哲学の原点であり、哲学の基礎的思考法やもっと優れた哲学者のその哲学の内容をコンパクトに知ることができる入門書にして哲学史上の名著。本文は全体で100ページ、重要な1部から4部までで約50ページなので初学者でも一冊を読み通すことができる。毎年、哲学を学び始める哲学科や文学部の学生が購入するので、日本で最も売れている哲学の本でもある。

『<子ども>のための哲学』永井均(講談社現代新書)

本書は「子どもための哲学」の本ではない。子どもの頃に感じた存在の謎や善悪の規準といった基礎的問題を中心として展開する全世代のための哲学入門書。

『集中講義 これが哲学!いまを生き抜く思考のレッスン』西研(河出文庫)

『哲学入門』カール・ヤスパース(新潮文庫)

『哲学入門』バートランド・ラッセル(ちくま学芸文庫)

『哲学入門一歩前 モノからコトヘ』廣松渉(講談社現代新書)

哲学的思考と哲学の議論

『知ることより考えること』池田晶子(新潮社、2006)

物事を知るだけではなく考え続けていくこと=哲学して生きること、ただ情報を「知ること」ではなく、考えてあるいは哲学をして得た知=知識が大切だという池田晶子さんの根本思想やクリティカルな哲学的思考から考える様々な世の中の出来事や流行、風潮、日本で当たり前な事だとされていることを疑い池田さんの考えを述べる「哲学的エッセイ集」。(「哲学のエッセイ」ではない。)存在や死の謎とその尊重、言葉や内面は大切でありその人の魂そのものであるという哲学的ポリシー、在野の文筆家としての自由な立場、女性的な生活感覚と直感から、人間の精神と人生にとって本質的に大切なものとは何かを問い、資本主義とビジネス社会、拝金主義、情報化社会とインターネット、道徳教育、国家感とその教育、メディア型政治、格差社会とそれへの意識、安全志向、科学信奉、スピリチュアルなどをそれらの現象を作っている言葉や思考も含めて根本的な部分に哲学的に疑問や考えを述べる。

 私にとっては、自分が存在しているというこのこと以上の神秘はあり得ない。(自分が)存在しているというこのことは、科学的には説明できず、理性によっても理解できない。なんでこんなものが存在するのかわからない。なんで存在するのかわからないものが存在し、それがこの毎日を生きているなんて、とんでもないことである。驚くべき神秘である。私には毎日が神秘体験である。(p.172)

目次

第一章 自分とは何か/第二章 悪いものは悪い/第三章 人間の品格/第四章 哲学のすすめ/あとがき

『残酷人生論』(朝日新聞社、2010)

在野の哲学エッセイスト(自称は文筆家。)である著者が『論座』に連載したエッセイをまとめたもの。「理解と常識(コモンセンス)」「情報と考えることによって得られる知識」「宇宙的存在としての私と魂」「普遍的な倫理と虚構の道徳」「宗教・信仰の否定と存在・宇宙への信念」「死の不在」といった様々な著者の哲学思考の中心テーマのエッセンスが語られる。

「1 わかる力は、愛である 言葉と対話」弁証法的思考や現象学的な言語感から「わかる」ことや「意味」ついて考察する。そして、哲学による理解や確信が「常識」であり、それは「分別」「良識」とも言い、ソクラテスの「無知の知」を含む「わらからないとうことがわかる」ということである。他者や物事を「わかろうとする意志」は優しさであり、「わからないものをわかろうとする力」が愛であるという。

「2 賢くなれない「情報化社会」 知識と情報」では、メディアからの情報(=ただメディアで流通する物事を知ること)を知ることは必要だろうか意味あることだろうか、本当に人が良くなることなのだろうか、と疑問を述べる。そして、知識(=自ら考えて知ること)が大切であり、さらに魂による宇宙の中の普遍的真理の認識や哲学による生や心についての真実の知識の方を知ることが大切であるとする。

「3 まぎれもなくここに居る 私という謎」では、様々に考察してもパラドックスに陥ってしまう「私」「アイデンティティ」「魂」の問題について考える。私を認識している私はただの脳や心ではない、私は宇宙によって見られる意識であり、私は無いことによって有る「神」である。

「4 人生を、窮屈にしないために 自由と善悪」では、私の社会や世界では「現実として」、言葉で「考える」ことが大切であるとする。「国家」や「貨幣」を考えると、それらは考えることによって存在し動いているとわかる。それらを変革して自由を得るには、一人一人が考え「精神革命」することでしかできないという。また、倫理は形式、道徳は内容であるが、日本での善悪をめぐる議論が不毛なのは、内容によって形式を問おうとしているからであり、道徳を強制され、倫理によって自由に人間的欲求としての善を考えていないからである。そして、真善美はイデアであるから真善美であり生きる意味であり、価値、快である。それは超越的な存在ではなく、私たちの精神に内在するものであり、そのことに気づけば私たちは倫理的になることができると言う。

「5 信じること、疑うこと 神と宗教」では、どんな宗教も信仰しないが、神について常に考えているという筆者が、筆者の考える神、つまり、哲学的絶対者、世界の存在の謎としての神、存在そのもの、あるいは私の思考を存在させる一方で私の思考がつくるものとしての神について述べる。本当の救いは事実や困難をありのままに認めることであり、そして、新しい信仰や宗教性は自らによって考えぬくことにあり、それは「垂直的孤独性」「凝縮的透明性」=哲学であると言う。

「6 人生最高の美味を考える 死とは何か」では、死は無であり、死後には私は無になるので恐れることはない、存在しないものに対しては私は何も態度を取ることはできない、と筆者は考える。しかし、「存在しないもの」として死は存在する、この不思議を哲学によって考えることが人生最大の美味であると言う。

「7 あなたが、あなたである理由 魂を考える」では、私という形式だけではなく私という内容や個性、個別性を存在させている一方で宇宙の一部であり全宇宙を反映するものとしての「魂」の不思議について述べる。

「8 幸福という能力 「魂の私」を生きてゆく」では、筆者は幸福であるためには「暮らしぶり」よりも、幸福を感じる/感じられるための魂のあり方が大切だと言う。論理的思考の外に出て「なんでもアリ」、苦しみも喜びも努力もない、という魂の構えが絶対自由であり、この状態が最終的な幸福であるとする。

アカデミックな哲学とは違って、厳密な論理性や正当性や一貫性や論拠に拘らず、哲学する対象の重大さにも拘らず、一人の作家として哲学的な感覚を自由に述べて、多くの人に関連する普遍的日常的哲学問題について気づかせてくれたり、日本人の当たり前だとされているコモンノウリッジへの疑問を述べその誤りを啓発している。様々な著者の中心的な考察テーマのエッセンスが詰まった池田晶子さんの著作の中で最も推薦できる一冊。スリリングに読めて、哲学的思索の出発点となる要素や池田さん独自の思考や見解、結論が多く書かれている。

多くの哲学的「問い」は鋭く哲学の答えの部分も鮮やかだが、エッセイであるためか哲学のプロセスや論拠が省かれている。タームの定義が池田さん独自のものであったり、ある場合は辞書的なものであったりする。学問としての哲学の正しさや厳密性に縛られていない、一方で哲学の議論のプロセスを省いていたり、意見を無理矢理に述べている独善的な決めつけも多い。外国語ができないので「common senseとcommon knowledge」「éspritとâme、cœurの違い」といった外国語で思考すれば解決できる問題を日本語の思考で考えている。(あくまで平易な日本語で日本語の思考で読者に思想を伝えようとしているのかもしれない。)

古代ギリシャから続く哲学的思考の一方で、著者の女性的な軽やかさと生活感覚、エゴ、自由奔放さ、身勝手さ、現代人性や一つの「世界」「宇宙」「国家」「歴史」「形而上学」といった大きなものに囚われず、時にそれに挑んでいく自由な思考によって、新たな哲学的視野が開かれる感覚がある。

「考え」は誰のものでもない。「考え」はそれ自体が普遍である。「考え」においてこそ人は、ちっぽけな自我を消失し、考える精神それ自体と化す。考える精神それ自体は、どう考えても誰でもない。私はかつて、こういったことがある。
 宇宙とは、自己認識する魂である。
これを裏から言えば、
 魂は、認識する宇宙の容器である。
先日テレビで見たのだが、あの羽生名人を思ってみてください。あの人、ちっぽけな自我なんかもってない。ちっとも自分を主張しようとしない。私は推測するのだが、おそらく彼もまた、自分が誰だかわからなくなる瞬間があるのではないか。宇宙が自身を認識するための容器と化した彼という魂は、無限に対して開かれた思考である。無限を思考する能力それ自体であるところのこの「私」は、それではいったい誰なのか。「私」はいまどこに居るのか。(pp.53 – 54)

目次:思い悩むあなたへ/プロローグー疑え/1「わかる」力は、愛であるー言葉と対話/2 賢くなれない「情報化社会」ー知識と情報/3 まぎれもなくここに居るー私という謎/4 人生を、窮屈にしないためにー自由と善悪/5 信じること、疑うことー「神」と宗教/6 人生最高の美味を考えるー死とは何か/7 あなたが、あなたである理由ー魂を考える/8 幸福という能力ー「魂の力」を生きてゆく/エピローグー信じよ/あとがき/池田晶子・著作案内

『はじめての哲学的思考』苫野一徳(ちくまプリマー新書)

竹田青嗣から哲学を学んだ若手の気鋭の教育学者が、「さまざまな物事の本質をとらえる営み」「共通理解を見出そうと探求をつづけ」るものとしての哲学説や一般的な哲学の考え方や概念を取り上げて、実例を示しながら現実に対する考え方や実際の問題解決に役立つ思考法としての哲学を10代と若者へ向けて真摯にしかしやさしく解説していく。

第一部では、哲学と宗教、科学との違いから哲学の意義を説明する。唯一の神話から世界を説明する宗教、実験と観察によって事実の得られる事実から世界を説明する科学と違い、哲学は原理による相互的で可塑的な確かめ可能性と意味や価値の世界から物事の本質を明らかにする思考法である。第二部では、哲学説や哲学の方法を用いて「一般化のワナ」「二項対立のニセ問題」「帰謬法のディベート」「社会の始発点である欲望相関性と信念対立を乗り越える方法」「事実のみで導かれる当為、命令の思考、思考実験によるニセ問題」それらへの思考法や対処法が実例をあげて述べられる。第三部では、「恋」をテーマに本質観取と共通了解へいたるための哲学ディベートの実例が紹介される。

 僕たちに”たしかめ可能”な最後の地点、それは、今僕がこのような欲望を抱いているということ、そしてその欲望に応じて世界を認識しているということ、そこまでなのだ。(p.101)

 そうやってお互いの欲望の妥当性をたしかめ合いながら、僕たちは徐々にお互いが納得し合える”共通関心”へと思考を向かわせる必要がある。独りよがりな欲望・関心じゃなく、どちらも共有できる、もっと深い欲望・関心を考えあうのだ。(p.107)

『翔太と猫のインサイトの夏休み 哲学的諸問題へのいさない』永井均(ちくま学芸文庫)

夏休みの中学生・翔太と心の中を見通す猫のインサイトが哲学の教師となって対話というわかりやすい形で具体的な例や思考実験、哲学の概念や哲学説を紹介しながら、様々な哲学のアポリアについての議論をする中学生・高校生向けの哲学の本。「世界の実在」「他我の存在」「善悪の判断」「自由意志と人生の意味」など哲学の代表的なアポリアについて深い思考力と洞察力で高いレヴェルの議論がやさしい言葉で行われる。

「第一章 いまが夢じゃないって証拠はあるのか」では、「培養液の中の脳」の思考実験をきっかけにして、(睡眠中に見る)夢と現実の違いから、実在的世界の認識、客観的真実の存在、実在論と非実在論の対立と懐疑論の問題を議論する。そして、その対立を超える真理の規準の問題、実在と非実在を抱合する自然かつ超越的な視点の考え方を示す。

「第二章 たくさんの人間の中に自分という特別なものがいるとは」では、翔太の見たクラスメートたちがロボットで自分もロボットだったという夢を土台にして、他者の感覚や感情の実在の問題と感覚の共同性と相違性の問題を取り上げる。それらを他我問題や他者の存在の問題につなげ、細部のない可能世界ではなく、現実に起こった現実世界を共有する連続した時空にいる他者は実在するという。空間的に独立して存在し時間を生きる奇跡的な自分もいて、同じ時空を生きる「他人の自分」も現実世界をそれぞれの世界として生きている。

「第三章 さまざまな可能性の中でこれが正しいといえる根拠はあるのか」では、善悪の判断や道徳に絶対的な根拠はなく行為や歴史、言語使用の中でつくられることが述べられる。多数派の意見によって正しさの絶対性と客観性がつくられるが、正しいことが正しくなるように歴史はすすんできた。また、行為の中で妥当性が生まれ理性が形成され、合理性や「チャリティ原則」によって正しいということはつくられてきた。そして、言葉の意味の意味を問うことはできない、意味は言葉を使っていることの中で示される。

「第四章 自分がいまここに存在していることに意味はあるのか」では意志と欲望や人生の意味の問題について述べる。意志と欲望の振り分けに根拠はなく入れ替わりが可能であり区別もなく、自己意志は現実の行為の一つの状況でしかない。また、死は死んでいる状態が恐怖なのではなく、もう生きられないことに対する恐怖である。自分の死は、死んでいく人間たちの一つの死に過ぎないが、同時にひとつの世界そのものの消滅で他者と交換することはできない。生も死も結局は現実である。だから、存在は奇跡であり、どんな理由も因果性も及ばない。なので、人生に意味はなく、意味がないということが人生の輝きであり、人生に味わいを与えるものである。

というように、本書では、哲学の定義や意味の解説・哲学史紹介ではなく哲学的議論そのものが書かれている。中学生と高校生に向けられて書かれた本だが、やさしい表現で哲学を含めた一般・常識(コモンセンス)的な思考をひっくり返す議論、あるいはとくに三章に見られるように非常に「常識的・合理的な」議論を行い、様々な哲学説の矛盾や問題を超える地点や哲学の答えあるいは答えのない答えにまで議論が及んでいる。表紙の印象とは違って、中高生だけではなく、大人や哲学科の学生にも勧めることができる高度な哲学書である。

「そうだよ。そういうふうに、まもなく終わる奇跡って考えると、今度は逆に、いま生きているってこと、いま存在しているってことが、もっと神秘的に、もっと輝いて見えてくるんじゃないかな。それを味わい尽くさないとね。大事なことは、そのことに一段高い意味を与えてしまわないことだな。」(p.250)

『ソクラテスの弁明』プラトン (光文社古典新約文庫)

『哲学の教科書』中島義道(講談社学術文庫)

『哲学の使い方』鷲田清一(岩波新書)

『わかりやすいはわかりにくい? 臨床哲学講座』鷲田清一(ちくま新書)

『「思いやり」という暴力 哲学のない社会をつくるもの』中島義道(PHP文庫)

『うるさい日本の私』中島義道(角川文庫)

『私・今・そして神 開闢の哲学』永井均(講談社現代新書)

『哲学の謎』野矢茂樹(講談社現代新書)

近代哲学・分析哲学の様々な思考実験やアポリアを紹介し、それらを考察することから読者を哲学することへ導く。

『自己啓発をやめて哲学をはじめよう』酒井穣(フォレスト出版)

哲学史

『図説・標準 哲学史』貫成人(新書館)

筆者の優れたセンスによってコンパクトに2ページから4ページほどで(デカルトは8ページ、カントは10ページ)多くの哲学者の説や思想の要点が「図」も加えられて、わかりやすくまとめられている初学者・入門者向けの哲学史。

『はじめての哲学史 強く深く考えるために』竹田青嗣、西研(有斐閣アルマ)

フォアソクラティカからポスト構造主義やリバタリアニズム、タレスからデリダやロバート・ノージックまでの様々な哲学者、哲学の潮流が要点をわかりやすくコンパクトにまとめて、問題点も含めてアクチュアルな問いとして解説された哲学史。

『西洋哲学史 古代から中世へ』『西洋哲学史 近代から現代へ』熊野純彦(岩波新書)

2006年に出版された日本の哲学史のニュー・スタンダード。

『哲学の歴史』新田義弘(講談社現代新書)

簡潔で明解な思想の展開を捉えた哲学史入門のスタンダード。

『西洋哲学史』今道友信(講談社学術文庫)

古代から現代までの哲学全体の流れを不足なく理解出来る日本の哲学史のスタンダード。

『反哲学史』木田元(講談社学術文庫)

ニーチェとハイデッガーの「反哲学」の視点からフォアソクラティカからニーチェまでの哲学という知の構築物、特にソクラテス、デカルト、ヘーゲルを批判的に見直した哲学史の新定番。

『現代の哲学』木田元(講談社学術文庫)

ニーチェの「神は死んだ」とした世界の価値体系の崩壊を起点とする現象学、実存主義、構造主義、ヒューマニズムなどの紹介と考察。

『ガイドブック 哲学の基礎の基礎 「ほんとうの自分」とは何なのだろう』小坂修平(講談社プラスアルファ文庫)

『そうだったのか現代思想 ニーチェからフーコーまで』小阪修平(講談社+α文庫)

『現代思想入門 グローバル時代の「思想地図」はこうなっている!』藤本一勇、清家竜介、北田暁大、毛利嘉孝、仲正昌樹(PHP研究所)

「現代思想のベーシックス」であるフランクフルト学派、ポスト構造主義、リベラリズム、カルチュラル・スタディーズとポスト・コロニアリズム、それらの思想、人物とタームなどをこの本は明解に紹介している。

『現代思想の教科書』石田英敬(ちくま学芸文庫)

『ニッポンの思想』佐々木敦(講談社現代新書)

吉本隆明と蓮實重彦(70年代)からニューアカ(80年代)、宮台真司と大塚英志(90年代)、東浩紀(ゼロ年代)までの日本の思想や論壇を時代状況を踏まえながら明確に簡潔に俯瞰する。

『哲学者群像101』木田元(新書館)

古代ギリシャのタレス、ピュタゴラスから近代のスペンサー、ニーチェまでの101人が、マイナーな哲学者も含めて、思想と作品が1〜4ページで簡明に紹介されている。哲学史全体を見てどのような哲学者がいるかを知り、どの哲学者を学びたいかを考えるきっかけとして最適な入門書。

『現代思想を読む事典』今村仁司(講談社現代新書)

800ページの分量で現代思想と現代哲学、現代文化の様々なタームやスクール、人物が網羅され解説されたニューアカ的読む哲学思想事典。

その他

『人生論』レフ・トルストイ(新潮文庫)

生命を哲学的にその本質を問うことから始まる生命(life, la vie)論としての人生論。動物の生命と人間の生命の理解と対比からトルストイは人間の生が時間と空間に規定されずそれらを超越する集合的歴史的なもので「世界に対する関係」だと考える。人間の理性的意識をよく用いて快楽の欺瞞と死に対する恐怖を退け、愛という人間の唯一の理性的活動によってあらゆる人が他者を愛し他者の幸福のために生きることが真の幸福である。

生命とは、理性の法則に従った動物的個我の活動である。理性とは、人間の動物的個我が幸福のために従わねばならぬ法則である。愛とは、人間の唯一の理性的な活動である。(p.143)

『現代社会の理論 情報化・消費化社会の現在と未来』見田宗介(岩波新書)

『君たちはどう生きるか』吉野源三郎(岩波文庫)

子どもたちのために小説のかたちを使って書かれた教養主義・人生論の古典であり、岩波文庫のロングゼラーのひとつ。

『星の王子さま』アントワーヌ・サン=テグジュペリ(新潮文庫)

童話のかたちを借りた現代社会批判・風刺であり、子どものような想像力や視線で書かれたかけがえのない純粋で美しい物語。そして、本当に大切なこととは何かを教えてくれる大人こそが読む返すべき人生論・幸福論でもある。

「じゃあ秘密を教えるよ。とてもかんたんなことだ。ものごとはね、心で見なくてはよく見えない。いちばんたいせつなことは、目に見えない」(p.108)

『二十歳の原点』高野悦子(新潮文庫)

恋愛と学生運動に悩みあの時代の「状況」を駆け抜けていった立命館の一女子大生の瑞々しさとニヒリズムが入り混じった詩的で哲学的な日記。

人間は完全なる存在ではないのだ。不完全さをいつも背負っている。人間の存在価値は完全であることではなく、不完全さでありその不完全さを克服しようとするところにあるのだ。(p.7)

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プラトンとアリストテレスの違い

プラトンによると<イデア>とは、「ものごとが何か特定のある規定をそなえていることの根拠である原型」である。イデアは原像であり、すべての個々の事物の世界はその影あるいは模造であるとプラトンは考える。つまり、それはイデア界と現象界との二元論である。このことは<洞窟の比喩>に例えられる。洞窟の内部には鎖につながれ壁の方向しか見ることのできない囚人がいて、外から太陽が照らしている。囚人が見る自分の影は感覚的経験であり、洞窟の中の空間は物質的な現象界、外の世界はイデアの世界、太陽は善のイデアに例えられる。そのように、人間には霊魂が肉体に入る前に見たイデアを想起すること、すなわち<魂の想起>が起こったときなどに、間接的にイデア界をその一部しか認識することしかできない。

アリストテレスの存在論の重要な概念である<形相>とは、「そのものが何であるか」に答えるもの(本質)であり、<質料>とは「ものが何からできているか」に答えるもの(素材)である。形相と質料は、個物にそなわっている不可欠な二側面である。そのようにアリストテレスは一元論として世界を捉える。プラトンはイデアを真に実在する存在者と考えた。これに対してアリストテレスは、感覚に捉えられる個物こそ真の存在者だと見なした。プラトンは、イデア界という現象界とは全く別の世界を想定せざるをえなかったが、アリストテレスによると、形相を質料から切り離して考えることはできない。個物としてのものは、そのものであるという本質を自分自身の中にもっている。アリストテレスは、現実の世界の外にあるイデア界を否定したのだ。

デカルト

近代<合理主義>の特徴とは、思考の論理的な連関をわれわれが認識する世界そのものとし、その連関の根拠を、認識主体としての人間理性の能動的、自発的なはたらきに求めたところである。その合理主義を代表する哲学者がデカルトである、デカルトは、数学は順序と量的関係が問題とされる学問であり、数学諸分野は統合できるものであるとする<普遍数学>を構想する。当時、数学的観念は生得観念であると考えられており、また、その形式的方法を取り出すことですべての学問を基礎づける「普遍学」が構築されうるとデカルトは考えた。

デカルトによれば、すべての人間は、真を偽から判断する能力である良識あるいは理性をもっている。人々が誤った認識や判断をするのは、理性の多少ではなく、理性をよく使う方法を知らないからだとデカルトは考えた。そこでデカルトは学問のための<方法についての四つの規則>を立てる。一つは明証性の規則であり、「明晰かつ判明に私の精神にあらわれるもの以外は判断に入れないこと。」である。二つ目は「分析の規則」であり、「対象とする問題を解くためにできるだけ小さな部分に分析すること」である。三つ目は「総合の規則」であり、単純な認識しやすいものから始めて、順序に従って思想を導くことである。四つ目は「完全枚挙」であり、見落とさないように枚挙し、全体における見通しを行うことである。また、それは単純な原理から演繹に進むという純粋な数学的方法でもある。

そのデカルトが思索の末に到達した哲学の方法が<方法的懐疑>である。これまで正しいと思われてきたあらゆるものをすべて徹底して疑ってみる。なるほど、すべては疑わしい。現実だと思っている生もすべて夢だという可能性は否定できない。ありありとあいた現実の感覚さえ世界の実在の証拠とはならない。しかし、このような懐疑の限界の中でも、ただひとつ「疑えないもの」が残る。それは疑っているコギト(考える私)の存在である。<cogito ergo sum>「我考える、ゆえに我あり」これは絶対疑えない真理であり、哲学の第一原理となるものである。また、これは新しい人間中心的な自然観の基盤となるものであり、デカルトは近代哲学の出発点を確立したのだ。

カントの認識論

カントは、人間の認識は直観の能力としての<感性>と、思惟の能力としての<悟性>が共同してはたらくことによって成り立つとしている、感性は対象によって触発されることにより表象を受け取る能力であるが、それを受け取る形式は感覚それ自体ではなく直感にアプリオリに備わる、時間と空間という<直観の形式>である。だが直感における統一はまだ対象としての統一ではなく、単なる「直感における多様」にすぎない。そこで悟性が概念を用いてこの多様を統一するときに、対象としての統一が成立する。客観的認識は、悟性に備わるアプリオリな概念=<カテゴリー>を使用するときにはじめて成立する。カントは量、質、関係、様相における12のカテゴリーを、判断表を手引きに導きだしている。そして、カントによれば人間の経験的認識は、感覚の所与をカテゴリーによって整序するところに生ずる主観的な「現象」でしかなく、自然界にある現象は認識することができても、叡智界にある<もの自体>は認識することはできない。もの自体としての神、自由にして不滅の霊魂などは、理論的認識の対象ではなく、ただ実践的行動のための要請としてのみ考察の対象となりうるとされる。また、対象の認識が認識のアプリオリな形式によって成り立つということは、認識は対象に依存するという従来の考え方を覆し、対象が認識に依存するということを説いたものとして、思想の上での<コペルニクス的転回>であるとカント自身が述べている。

ヘーゲル

ヘーゲルの哲学は<絶対的観念論>である。あるゆるものを包括した統一体である絶対者を、主体的な精神として規定し、一切の世界の諸相はその精神の自己展開だとする。そして、カントやフィヒテにおいて対立する実体と主体とを媒介する論理が<弁証法>である。いかなるものもそれ自体で自己充足的に存在しているのではない。ある有限なものを、それ自体において絶対的に真であるとすると、そこに矛盾が生じ、一方でその反対ものを真とするとそこにも矛盾が生じる。そこで、その両者は互いに媒介しあう相対的なモメントにすぎないとすると、総合的な見方にアウフヘーベンして事柄を把握しなくては行けなくなる、という必然の論理が弁証法である。また、ヘーゲルにおける<精神>とは、主体として捉えられた絶対者である。精神は主観的精神としては内面の様々な段階をくぐって理性に高まり、客観的精神としては法や人倫や国家といった客観的世界の諸形態をとって現れ、絶対精神としては芸術や宗教の形態をとる。また世界精神としては歴史を動かす力そのものである。

そういった精神の自己運動が社会的倫理として家族・市民社会・国家に体現されるのが<人倫の体系>である。また、ヘーゲルは、絶対精神の自己展開という考え方を歴史そのものにも適用する。「世界精神」は、古代東方諸国、ギリシア的世界、ローマ帝国、キリスト教的ゲルマン的世界という4段階を経て、自らの本質を自覚していき、ついにドイツのプロイセン国家において完全に自らを完成する。それが世界精神の実現過程としての<世界史>である。

中期のフッサール

中期のフッサールは、意識による世界構成の行われ方をそのままに厳密に記述することによって諸学を基礎づけようとする超越論的現象学を確立した。「還元」とは、フッサール現象学の基本概念のひとつで、事実の世界から本質の世界に入っていく認識態度の根本的変更を可能にする操作を意味する。<形相的還元>とは、ある所与の事象に関する事実認識をもとに、その本質認識を獲得しようとする操作である。この操作によって当該事象の一般的で必然的な本質連関が確定される。<現象学的還元>とは、世界の存在を素朴に前提する日常的・習慣的な認識態度である自然的態度での世界定立のはたらきをエポケー<現象学的判断中止>し、同時に己の意識を、世界部的な一事象とみなす態度を忘却する操作を指す。これによって、自然的態度から超越論的態度への移行が可能になる。そして、その還元によって世界内部的という規定をはぎ取られた<純粋意識>が、現象学の対象となるものである。その純粋意識の特性は以下のものである。「反省」とは意識を主題化して回帰的に帰属する特性である。「純粋自我」とは、様々な体験は自我のものとして、その自我に属するという特性である。「現象学的時間」とは、すべての体験をそれはひとつの持続的な体験であるとする特性である。そして、<志向性>とは、「意識はつねに何かについての意識である」という意識の静態的な特性である。中期フッサールの現象学は、その純粋意識の地平における意識の本質構造である志向性に即しつつ一切の現象を解明しようとする。

論理実証主義

フレーゲ、ラッセル、ウ゛ィトゲンシュタインなどの影響を受けた哲学者、数学者、自然科学者たちのグループ。1920年代のウィーンで、科学的世界把握を目標に掲げた論理実証主義といわれる運動を始めた。シュリック、カルナップ、ノイラート、ハーンが中心となった「ウィーン学団」は、分析哲学の歴史の中で最も重要な役割を演じた。彼らによれば哲学の仕事とは意味の分析であるとされる。その思想的特徴を述べると、まず<意味の検証理論>が挙げられる。それは、命題の意味とはその検証方法である、というものである。つまり、主張には裏付けが必要であり、さらに、主張の内容は裏付けそのものである、というわけである。すなわち、有意味である命題は検証可能でなければならない。これを<検証可能性のテーゼ>という。物事には最小単位や開始点があり、それによって物事を記述することができるという経験主義的信念のもとに<還元主義>の立場をとり、アポステリオリな知識に関しては、それをわれわれの直接経験を描写する感覚与件命題に還元できる、とする。その一方で、検証不可能な命題は無意味とするので、形而上学的命題の無効を主張する。そのように、論理実証主義は、知識の究極の絶対基礎づけを不可欠のものとし、その実現を求める<基礎づけ主義>の立場にたつ。また、科学の営みはつねに先行する概念枠に基づいており、理論と経験の間にはつねにコンウ゛ェンショナルな要素が介在するとする<規約主義>の立場をとる。この立場は、独断的実証主義に対する解毒剤の役割を果たしてきたが、現在ではこのコンウ゛ェンショナルな要素の認識論上の位置づけを巡って論争が続いている。

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