人生の意味(哲学・思想・心理学)ブックリスト

『幸福と人生の意味の哲学 なぜ私たちは生きていかねばならないのか』山口尚(トランスビュー)

哲学の意義と限界、哲学者としての役割やレスポンシビリティーを常に念頭に置きながら、哲学の根本問題であり最大問題でもある「幸福」と「人生の意味」を様々な哲学の幸福論と人生の意味論、文学、ノンフィクション、ルポルタージュの様々な幸福と不幸の例を挙げながら別問題・別概念として誠実に精緻に検討する。

幸福と人生の意味という二つの「語りえぬこと」を徹底的に考えることで幸福と有意味な人生のあり方を捉えようとする。不幸や死、人生の無意味さの実際や条件、構造を直視しながら、アイロニーの必要性(一歩引いて没頭する自己を見ること)、それらが弁証法的に人生と幸福に与える意義も含めて、人生の意味の意味や構造。幸福の本質や根源、構成を誠実に詳細に考察しながらそのあり方に迫る。超越的な人生の意味の哲学的本質と幸福の根本的条件や性質、それらの語りえぬあり方、その「語りえぬもの」の「語りえなさ」を尊重しながら、哲学者の自らの事として自らの問題として考え抜く。

そして、本書は「幸福こそが人生の意味だ」(p.238)と結論づける。生活や活動の軌跡が超越な意味として浮かびあがり、存在や生命の神秘や尊厳を感じただそれらを信じることが幸福だという。

「どう生きるべきか」や「有意味な生き方とはどのようなものか」という問いに対しては、問いの形式に引きずられて、ついつい「……と生きるべきだ」や「……が有意味な生き方だ」と答えたくなります。そしてこのような形の答えこそが、人生の意味の哲学に多くのひとが期待するものなのかもしれません。現にーー次節で考察するようにーーこれまで多くの哲学者が特定のタイプの生き方を取り上げ、それを「有意味なもの」と見なしてきました。これに対して本書では、この方向へ進まないことが重要だ、と主張したい。すなわち、「有意味な生き方とはどのようなものか」に関しては、具体的な答えが与えられない状態に耐えることが重要だ、と言いたいわけです。(pp.158 – 159)

『人生の哲学』渡辺二郎(角川ソフィア文庫)

「I 生と死を考える」では、哲学と人生の根本問題としての死と生を哲学的存在論的な次元の問題として考える。生と死をセットとして考えることに特徴であり、死を無になることだとしたエピクロス、「死へ向かう存在」としての現存在の自覚が本来性だとしたハイデッガーを基礎にしながらサルトル、モンテーニュ、ヤスパースの議論を挙げて批判的に考察し、ポジティブな生の契機としての死のあり方の可能性を述べる。

「II 愛のふかさ」では、まず、人生の形式と力、その目的が神となるフィヒテの愛の概念、実存へ生命への覚醒を呼びおこすものとしてのハイデッガーの良心の概念を紹介する。次に、すべての世界や生命を尊重して善く生きたいと願う源としての広義の愛の概念を考える。人生には苦悩や挫折があり、底に暗い「情念」があるからこそ愛が花開くという。

「IV 幸福論の射程」では、まず、幸福にはその基礎条件としての「安全としての幸福」、自己超克や理想と価値の実現としての「生きがいとしての幸福」だけではなく、理性信仰によって得られる、存在が与えられたことと生命の美しさ、そして、その美しい存在である他者との心の理解に目覚め感じる「恵みという幸福」の3つがあるという。次に、「社会的儀礼の勧め」であるアラン、「外向的活動の勧め」であるラッセルの幸福論を紹介し、それらの優れた点と疑問を述べる。 しかし、アランとラッセルの幸福論は楽観論であり、不幸や苦悩に充分に対応することはできず、「内省と諦念の勧めである」ストア派とショーペンハウアー、「揺るぎない信仰の勧め」であるヒルティと三谷隆正の幸福論の要点を紹介し、それらの方に幸福論としての正当性があるとする。

「V 生きがいへの問い」人生の充実と肯定の問題であり、以上に取り上げてきた議論も含めて人間の全てに係わるものとしての生きがいの問題について考える。しかし、真の生きがいを得るには自身の充実と幸福だけではなく、人倫を尊重し、現在の時代状況を注視しながら、ヒューマンな社会が実現されるように一定の参加をしなければならない。そして、第二次世界大戦後でありグローバリズムの時代である現代において、私たちは意志と知性、実存と理性が結びついた豊かな展望を持って「良心的ヒューマニズム」の立場に立って、態度決定やそれなりの政治参画をし、また各自の使命や役割における生きがいの達成のために人生を生き尽くさなければならない。

主にハイデッガーとヤスパース、サルトルの実存主義とドイツ系の哲学とくにドイツ観念論、カント、フィヒテ、シェリング、ヘーゲル、そして、プラトンやエピクロス、エピクテトス、セネカと言った古代哲学や文学、ギリシャ神話、キリスト教、仏教などの幅広い知見を用いて生と死、愛、幸福、生きがいといった「語りえぬ」の人生の問題について深く追及していく。(筆者がそのように考えているかはわからないが、)宗教、特に一神教に替わるものとして、人生の意味や価値、肯定、倫理、救いを与えてるものとして哲学を扱い、そういったものとして哲学を考え、普遍的で大きな広義の生と死、普遍愛、幸福、他者・社会との関係性構造、人生の意味の構造を描き出していく。「語りえぬ」ものを語っているからこそ、全体はドイツ観念論的なキリスト教的色彩を帯びていて、哲学的根拠のある「宗教的なもの」、語りえぬものを語り、言葉によって言葉を超えていく、宗教に替わるものとしての哲学のあり方や価値を人間のLebenの問題の範囲の中で徹底的に追及している。

真摯で熱意を感じる本であるが、考察の前提やプロセスの部分で教科書的に(この本は元々、放送大学のテキストだが)良きこと・善きことを決めつけているところやコモンノウリッジで考えているところ、その決めつけによって説明を省いているところがある。その一方で、教科書的という範囲を超えて、理想主義的、精神論的、ポジティヴィズムによる記述や表現がある。その意志や情熱を保持しながら、哲学的思考や哲学的真理に基づいて「正しく」人生の構造的普遍的課題を認識して、「良心的ヒューマニズム」によって現代人が本当によく生き充実した生活を送るための思想をこの本は示している。

こうして私たちは、さまざまな「無意味」の出現にさらされ、それとの戦いのなかで、おのれの「意味」ある人生の歩みを、打ち立てねばならない存在であり、まことに苦悩と格闘の人生が、私たちの生存そのもの真実だと言わねばならないと思う。私たちが、宗教や芸術や道徳や哲学、さらには学問や科学を発達させ、ひいては、歴史的社会の多様な形成や、自然的環境世界との共生にもとづく調和と発展の努力も積み重ねるのも、こうした「無意味」の出現と戦うためであり、すべては、「意味」ある世界を築き上げるための努力であると言わねばならない。さらに、個々人としても私たちは、人生遍歴のただなかで、さまざまな「無意味」の出現と格闘しながら、各自が、自分自身の人生の「意味」をまさに生きているのである。「生きがい」とは、とりも直さず、この「人生の意味」のことにほかならないであろう。(p.407)

目次:I 生と死を考える/II 愛の深さ/III 自己と他者/IV 幸福論の射程/V 生きがいへの問い/単行本版 まえがき/付録「研究室だより」人生とは何か/解説 人情あふれる哲学教師としての渡邊二郎 森一郎/人名索引

『人生の意味とは何か(フィギュール彩)』テリー・イーグルトン、彩流社

『人生に意味はあるのか』諸富祥彦(講談社現代新書)

心理学者でありカウンセラーでもある筆者が自身のカウンセリングと大学での「人生に意味はあるか」というテーマでの授業でのディスカッションから現代の生きる意味の喪失の実相について述べる。次に、宗教と文学(五木寛之、親鸞、トルストイ、ゲーテ)、哲学(トマス・ネーゲル、渋谷治美、宮台真司、ニーチェ)、スピリチュアル(飯田史彦、キューブラー・ロス、『チベット死者の書』、玄侑宗久、上田紀行、江原啓之)、筆者が専門とするヴィクトール・フランクルのロゴテラピーあるいは実存分析、それらの人生の意味論を紹介・検証する。終章で、筆者が人生の意味について悩みぬいた末にそれに覚醒し把握した経緯と、筆者が考える人生の意味のあり方や構造、そして、人生の意味と目的や「私」との関係についての一定の答えを述べる。

筆者は「人生には意味がある」と簡単には結論せず、無意味やその絶望感と真摯に向かい合い、「人生に意味はない」という意見も否定せずよく検討し、人生の意味の本質に迫ろうとする。また、哲学による「意味の無さや虚無、絶望に耐えることが人生の意味」とクールで原理的な態度だけを支持せず、文学や宗教による体験としての人生の意味の問題、スピリチュアルによる心のあり方としての人生の意味、フランクルによる発見するものとしての人生の意味も視野に入れる。そして、終章では、人生の意味の語りえなさ、人生の意味の無さと絶望とも誠実に向き合いながら、筆者がある覚醒によって発見した「存在者や魂や宇宙の存在の謎とそれらへの驚き、存在や生命が在ることとそのアクティヴな働きへの気づきと感動」というような哲学的かつ宗教的な人生の意味についての問いへの回答を述べる。

この「はたらき」は、天然自然、意味無意味を超えた「いのちのはたらき」です。その意味でそれは、超・意味です。またそれは、意味があるとかないとかいう観念的な意味づけに先立って、ずっと前からそこではたらいていたものです。その意味でそれは、前・意味であり、脱・意味であると言うこともできるでしょう。(p.198)

私のなすべきことはただ一つ。この「はたらき」そのものをじゅうぶんに生きること。「はたらき」そのものに目覚めて、生きること。それが人間の、生きる意味であり目的であることが、直ちにわかったのです。(p.199)

『意味への意志』ヴィクトール・フランクル(春秋社)

『生きがい喪失の悩み』ヴィクトール・フランクル(講談社学術文庫)

『<生きる意味>を求めて』ヴィクトール・フランクル(春秋社)

『生きがいについて』神谷美恵子(みすず書房)

『幸福について』アルトゥール・ショーペンハウアー(光文社古典新約文庫)、『幸福について 人生論』アルトゥール・ショーペンハウアー(新潮文庫)

『意志と表象としての世界』の思想を一般の読者向けに実践論として著した幸福論・人生論。ペシミズム(厭世主義、最悪主義)によって却って、苦悩と偶然に満ちた世界の中で、人はできる限り苦痛を避け、他者からのイメージや表象=名誉や地位ではなく、第一に本質的に価値あるもの=健康、力、美、気質、徳性、知性とそれを磨くことを含む品格、人柄、個性、人間性、第二に所有物と財産を大切にし、合理的に消極的に快適に安全に生きるべきだとする。

人が直接的に関わり合うのは、みずからが抱く観念や感情や意志活動だけであって、外的な事柄は、そうした観念や感情や意志活動のきっかけをつくることで、その人に影響をおよぼすにすぎないからである。(p.14)

『人生論』レフ・トルストイ(新潮文庫、岩波文庫)

生命を哲学的にその本質を問うことから始まる生命(life)論としての人生論。動物の生命と人間の生命の理解と対比からトルストイは人間の生が時間と空間に規定されずそれらを超越する集合的歴史的なもので「世界に対する関係」だと考える。人間の理性的意識をよく用いて快楽の欺瞞と死に対する恐怖を退け、愛という人間の唯一の理性的活動によってあらゆる人が他者を愛し他者の幸福のために生きることが真の幸福である。

生命とは、理性の法則に従った動物的個我の活動である。理性とは、人間の動物的個我が幸福のために従わねばならぬ法則である。愛とは、人間の唯一の理性的な活動である。(p.143)

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幸福論・人生論・ストア哲学の名著リスト

幸福論

『幸福について』アルトゥール・ショーペンハウアー(光文社古典新訳文庫、新潮文庫)

『余録と補遺』の中の一冊であり、『意志と表象としての世界』の「私たちの認識する世界は、表象による単なる現象界でしかない。」「生の意志は欲求を持つが、その欲求は常に満足することができず人生には常に苦が存在する。」という認識論と倫理、生の哲学の思想を一般の読者向けに実践論として著した幸福論・人生論。ペシミズム(厭世主義、最悪主義)によって却って、苦悩と偶然に満ちた世界の中で、人はできる限り苦痛を避け、他者からのイメージや表象=名誉や地位ではなく、第一に本質的に価値あるもの=健康、力、美、気質、徳性、知性、それらを磨くことを含む品格、人柄、個性、人間性、第二に所有物と財産を大切にし、自身の内面の幸福を重視して合理的に消極的に快適に安全に生きるべきだとする。

「第1章 根本規定」では、ショーペンハウアーの考える人間の生活と幸福の差異をつくるもの三分類が述べられる。第1のものは、「その人は何者であるか。」、第2のものは、「その人は何を持っているか。」、第3のものは、「その人はいかなるイメージ、表象、印象を与えるか。」である。第1のものは、自然に与えられた生得的なものであり、世界の外的状況をどう把握し感情や観念を得て幸福を感じるかという本質的で絶対的なものである。その意味で健康は最も重要な財産である。第2のものは、自らによって得ることができる見込みがあり、老化によって直接奪われないという点では第1のものに勝っている。第3のものに捉われると人は一時の享楽を得ることはできても、退屈や浪費、心配事からいつまでも逃れることができない。「第二章 「その人は何者であるか」について」では、まず、幸福であるために性格が快活で明朗であることが最も大切だと述べられる。次に、運動の効用によってその性格を快活に保つことができるとする。また、自らの中に楽しみを見出し、退屈を知らず、娯楽や遊興、奢侈に溺れないための高度な知性と感性の大切さが述べられる。「第三章 「その人は何を持っているか」について」では、自然で必要不可欠な欲求、「食」と「衣服」は苦痛にならないために必要だが、自然でも必要不可欠でもない欲求、つまり、贅沢、奢侈、絢爛豪華への欲望は満たすことができず無益で苦痛を生み出すものだとする。成功によって豊かになった者の方が奢侈の習慣がありいつまでも不満足や不幸であるという。また、現に財産を持っているものは快楽のために用いず、不慮の厄災や事故への防壁とみなすべきである。「第4章 「その人はいかなるイメージ、表象・印象を与えるか」について」では、他者や社会からの視点や評価によって与えられた名誉、栄光、位階、名声、誇り、国家の尊厳の虚栄とむなしさを指摘し、それらが派生的・間接的・受動的な価値であること、それらと他者の思惑に捉われる人々を批判する。

だから良き事も、悪しき事も、大きな災禍はともかく、人生において何に遭遇し、何がその身にふりかかったのかよりも、本人がそれをどう感じたかが問題であり、何事も感受力の質と程度が問題となる。その人自身に常にそなわっているもの、要するに「その人は何者なのか」ということとその重要性が、幸福安寧の唯一の直接的なものである。それ以外はすべて間接的なものだ。(p.29)

「他人の目にどう映るか」というのは、他人の意識にあらわれた表象であるとともに、この表象に当てはまる概念である。こうしたものは、私たち自身にとって直接的に存在するものではまったくなく、間接的に存在しているにすぎない。つまり私たちに対する他人の態度がこれで決まる場合に、私たちにとって存在するにすぎない。(中略)それに他人の意識のなかで何が起きようが、それ自体は私たち自身にとってどうでもよいことだ。(p.88)

『ラッセル幸福論』バートランド・ラッセル(岩波文庫、角川ソフィア文庫)

社会的に作られた誤った情緒や自己中心的な独断による思考や判断を指摘し、理性と客観性によってコントロールされた幸福になるためのマインドセットと努力の必要性を情熱的に理知的にラッセルの経験と観察や文学からの引用を挙げて具体的に説明するコモン・センスに基づく合理的幸福論。

前半では内閉的な自己中心性、禁欲的ペシミズムによる不幸の肯定、逃げ場のない競争社会、生活や仕事の飽きから生じる退屈と有害な興奮、他者と自分を比較してしまうねたみ、子供の頃から植えつけられた伝統的な道徳による罪の意識、他者たちからの評価に対する怯えなど現代の様々な不幸の原因を例を挙げながら説明し、時にそれらに対する対処法やマインドセットを提示する。後半では、他者に対する友好的な関心、仕事と趣味に対する適切な熱意、相互的で自然な愛情、一貫した仕事による建設性、思考を新しいチャンネルに切り替えらる気晴らしとなる趣味、努力とあきらめのバランスと中庸のつまらなさに耐えること、情熱と興味を外へ向けづつけることなど現代人が幸福を得ることができる方法や生活技術、思考法を説明する。

無益で有害な情緒や感情、禁欲的な罪の意識、自己中心的な地位や権力への欲望や執着を、ポジティブでバランスのとれた適切な良き情緒と熱意、自己中心性、積極性に変えることを教える幸福論だと私は思った。

 魂の偉大さを持ちうる人は、心の窓を広くあけて、宇宙の四方八方から心に風が自由に吹き通うようにするだろう。彼は、自分自身を、生命を、世界を、限りある身の許すかぎり、あるがままに見るだろう。人間の生命の短さと微小さをわきまえながら、同時に、個人の精神の中には、既知の宇宙に含まれいる価値あるものがすべて集約されていることを悟るだろう。(pp.250 – 251)

『幸福論』アラン(集英社文庫、岩波文庫、角川ソフィア文庫)

リセの哲学教授が新聞に連載したプロポ(3ページほどの短いエッセ)の幸福に関するものをまとめたもの。その内容は不幸や不条理、運命、内科的な病気や精神病も考え方やマインドセットで解決してしまうという驚くほどのオプティミズム(楽観論)、精神論(メンタリズム)、常識(コモン・ノウリッジ)論でありパッシヴな運命論、プラグマティズム、結果論である。私にはその本の全体的な主張や思想の意味はわかるが、賛成することはできない。しかし、それらを十分に言語化し受け入れること、それに対して思考する対象としてその意味や効用についてさらに深く考察している部分があること、行動や実践の効用にこの本を読む意味があると私は思う。アランの『幸福論』はフランスと日本でしか読まれていない。オプティミズム、パッシブなメンタリズム、寛容の思想が特にプロテスタント国で受け入れられないためだと思う。

 幸福であることが他人に対しても義務であることは、じゅうぶんに言われていない。幸福である人以外には愛される人はいない、というのは適切な言である。しかし、この褒美が正当なものであり、当然なものであることは忘れられている。なぜなら、不幸、倦怠、絶望は、わたしたちみなが呼吸している空気の中にあるからだ。それだから、汚れた空気に耐え、精力的な手本を示して、いわば共同生活を浄化する人々に対して、わたしたちは感謝と戦士の栄冠を捧げる義務がある。(p.286)

『幸福論』カール・ヒルティ(岩波文庫、角川ソフィア文庫)

優れた実務家でもあった筆者が、聖書の福音書の教えとストア哲学、特にエピクテトスとマルクス・アウレリウスの著作を基礎にして、生活の中でどう思考しどう行動すれば善く生き幸福を獲得することができるかを教える。真の仕事とは真面目に没頭すれば必ず興味が湧くものであり、人を幸福にするものはその創造と喜びである。

(角川ソフィア文庫版は第一部と第二部の抄訳版です。)

『幸福と人生の意味の哲学 なぜ私たちは生きていかねばならないのか』山口尚(トランスビュー)

哲学の意義と限界、哲学者としての役割やレスポンシビリティーを常に念頭に置きながら、哲学の根本問題であり最大問題でもある「幸福」と「人生の意味」を様々な哲学の幸福論と人生の意味論、文学、ノンフィクション、ルポルタージュの様々な幸福と不幸の例を挙げながら別問題・別概念として誠実に精緻に検討する。

幸福と人生の意味という二つの「語りえぬこと」を徹底的に考えることで幸福と有意味な人生のあり方を捉えようとする。不幸や死、人生の無意味さの実際や条件、構造を直視しながら、アイロニーの必要性(一歩引いて没頭する自己を見ること)、それらが弁証法的に人生と幸福に与える意義も含めて、人生の意味の意味や構造。幸福の本質や根源、構成を誠実に詳細に考察しながらそのあり方に迫る。超越的な人生の意味の哲学的本質と幸福の根本的条件や性質、それらの語りえぬあり方、その「語りえぬもの」の「語りえなさ」を尊重しながら、哲学者の自らの事として自らの問題として考え抜く。

そして、本書は「幸福こそが人生の意味だ」(p.238)と結論づける。生活や活動の軌跡が超越な意味として浮かびあがり、存在や生命の神秘や尊厳を感じただそれらを信じることが幸福だという。

本書はーー前節から続く主題ですが、ーー《幸福こそが人生の意味だ》と主張します。だがこれはそもそも何を意味しているのかと言うと、それは、人生があるがままのあり方で救われており、あるがままの意味をもつのだ、ということ。もう少し説明口調で言えば、《一切があるがままにある》という境地において人生はまさにあるがままの意味をもつのだ、ということ。簡潔に言えば、人生はあるがままの姿で美しい、ということ。美において幸福と意味が交錯します。(pp.238-239)

『私の幸福論』福田恆存(ちくま文庫)

筆者が女性雑誌に連載した幸福についてのエッセイを書籍化したもの。美醜や自由、職業、性愛、恋愛、家庭、快楽などの問題について事実や実態、良きことの認識、そして、不幸や不平等、不条理、残酷さの認識からを総合して考え、幸福な生き方を提案する積極的でもあり消極的でもある理性的・保守的・現実的な弁証法的幸福論。

 私の考えかたには救いがあるとおもいます。私は「とらわれるな」といっているのです。醜、貧、不具、その他いっさい、もって生れた弱点にとらわれずに、マイナスはマイナスと肯定して、のびのびと生きなさいと申しあげているのです。(p.22)

『幸福とは何か ソクラテスからアラン、ラッセルまで』長谷川宏(中公新書)

ソクラテスやアリストテレス、エピクロス、セネカなど古代の哲学者たちが求めた知性的な幸福や中庸の徳、心境の平静、ヒュームやカント、ベンサムなど近代の哲学者の感覚論や道徳論、快楽説と幸福との矛盾、メーテルリンクやアラン、ラッセルなど現代の哲学者が求めた郷愁や希望、楽天的な心の安らぎゆとり、コモンセンスに基づいた心の平衡としての幸福、西洋哲学史の様々な幸福論を紹介・検討して、産業社会化・消費社会化・グローバリゼーションに対抗する穏やかで静かな日常生活が幸福であり、その範囲を見定め維持することが今日の幸福論の課題だとする。

メーテルリンクの青い鳥が、夢の旅から帰ってきたチルチルとミチルの部屋の鳥籠のなかにいたように、また、夜ふけて議論を続ける猟人たちにとって犬のあくびが安眠へと誘う幸福の合図となるように、幸福はなにげない日常の出来事に導かれて自分の体と心を立て直すといった、そんな動きの積み重ねのなかに育まれる。(p.255)

『不幸論』中島義道(PHP文庫)

幸福であることの条件や幸福であることの害悪、ストア派、アラン、ヒルティ、ラッセルなどの幸福論を検証することによって、不幸や不条理、不平等の認識と自覚から人間のあり方や望むべきものを提示する逆説的倫理学入門。

『バカロレア幸福論 フランスの高校生に学ぶ哲学的思考のレッスン』坂本尚志(星海社新書)

フランスの大学入学資格試験あるいは中等教育修了資格試験であるバカロレアの哲学論文(デセルタシオン)のその独特のあり方と論述の「型」と解法、回答例を紹介してその思考の方法による論理的思考と批判的思考の重要性を述べる。

Chapitre 1では、バカロレアのシステムとそこでの哲学論文の重要性、「概念」「哲学者」「(議論の)手がかり」に分かれるリセの哲学のカリキュラムの構造を紹介する。バカロレアあるいはリセの哲学では、大学での哲学史的研究・独創的意見ではなく、「哲学という知のモデルを使って自律的・批判的に思考する力を育てる」ことが目標とされている。

Chapitre 2では、哲学論文は出題について知識を用いて批判的・自律的に考える能力を養い評価するためのもので、導入・展開・結論という「思考の型」があり、その回答のための方法と例を述べる。

Chapitre 3では、リセの講義をモデルとして多くの哲学者の幸福論・幸福説を紹介して幸福について述べる。

Chapitre 4では、教授と学生との対話形式で「幸せになるためにあらゆることをしなければならないのだろうか?」と「孤独のなか幸福でいられるだろうか」という問題について、Chapitre 3で紹介した幸福説を用いながら考察のプロセスと回答例を紹介する。

本書は本格的な幸福論の本ではなく、幸福説解説書であり、また、幸福を例題にしてフランスの哲学教育と独特なバカロレアの哲学試験の紹介をしています。哲学論文の方法を用いた論理的・批判的・弁証法的思考によって幸福になれる・精神的に豊かでいられる可能性があるというよりメタな意味での幸福についてのきっかけになる本であるとも言えます。バカロレアと幸福説紹介から入るユニークな哲学入門書でフランスの教育の紹介書です。

『幸福のヒント』鴻上尚史(だいわ文庫)

人生論

『生きることと考えること』森有正(講談社現代新書)

パスカルとデカルトを専門とする哲学者がパリでの20年の生活を経て得た自己の経験や哲学、生活術を、入門編としてデカルトの『方法序説』のように知的自叙伝として述べる。

本書の中心となるのは、パリでの「経験」と「感覚」という概念への目覚めである。情意の影をおびた関係や豊かな人間交渉を生み出すパリでの「感覚」の目覚め、それは、私とものがつくり出す「感覚」や「経験」は自然や世界によって与えられた物であるということであり、筆者の言う「感覚」とは、感覚が感覚においてわれわれが生きていることの全てがあらわるものだということである。風景や家が単なるモノから生きがいや意味を与えてくれるものとなること。その「感覚」が豊かになり成熟し一つのことばとして表すことができるのが「経験」である。そして、定義される「ことば」と定義する「経験」を、経験を超えながら反省し結びつける力が「精神」だとする独自の現象学的・実存主義的思想が述べられる。

次に、その独自の哲学によって自身の半生が豊かに解釈されて述べられている。一方で、哲学や文学、音楽とそれによる内省が豊かな経験と感覚をつくり出すという。そして、「よく生きる」とは「よく考える」ことであり、「よく考える」とは「よく生きる」ことであり、現実と言葉が結び合って自分の「経験」を織り成しながら生きるということである。

1970年より重版を重ねる講談社現代新書の歴代発行部数24位でありロングセラー。当時のティーンエイジャーや若者によく読まれた哲学入門・哲学エッセイの名著。

 その意味で、ことばをほんとうに自分のことばとして使うということが、実はその人が本当に生きるということと一つになる。ほんとうに生きることによって、個的なものと普遍的なものとが、自分の名前を与えるという決定的な行為において、自分の中の経験に結びつけられて普遍的なものとなるということです。(p.84)

 人間にとっては「生きること」と「考えること」を離すことは事実上できません。つまり、「よく生きる」ということは「よく考えること」、「よく考えること」は「よく生きること」で、この二つは離すことができない。私はそう思うのです。(p.190)

『人生の哲学』渡辺二郎(角川ソフィア文庫)

「I 生と死を考える」では、哲学と人生の根本問題としての死と生を哲学的存在論的な次元の問題として考える。生と死をセットとして考えることに特徴であり、死を無になることだとしたエピクロス、「死へ向かう存在」としての現存在の自覚が本来性だとしたハイデッガーを基礎にしながらサルトル、モンテーニュ、ヤスパースの議論を挙げて批判的に考察し、ポジティブな生の契機としての死のあり方の可能性を述べる。

「II 愛のふかさ」では、まず、人生の形式と力、その目的が神となるフィヒテの愛の概念、実存へ生命への覚醒を呼びおこすものとしてのハイデッガーの良心の概念を紹介する。次に、すべての世界や生命を尊重して善く生きたいと願う源としての広義の愛の概念を考える。人生には苦悩や挫折があり、底に暗い「情念」があるからこそ愛が花開くという。

「IV 幸福論の射程」では、まず、幸福にはその基礎条件としての「安全としての幸福」、自己超克や理想と価値の実現としての「生きがいとしての幸福」だけではなく、理性信仰によって得られる、存在が与えられたことと生命の美しさ、そして、その美しい存在である他者との心の理解に目覚め感じる「恵みという幸福」の3つがあるという。次に、「社会的儀礼の勧め」であるアラン、「外向的活動の勧め」であるラッセルの幸福論を紹介し、それらの優れた点と疑問を述べる。 しかし、アランとラッセルの幸福論は楽観論であり、不幸や苦悩に充分に対応することはできず、「内省と諦念の勧めである」ストア派とショーペンハウアー、「揺るぎない信仰の勧め」であるヒルティと三谷隆正の幸福論の要点を紹介し、それらの方に幸福論としての正当性があるとする。

「V 生きがいへの問い」人生の充実と肯定の問題であり、以上に取り上げてきた議論も含めて人間の全てに係わるものとしての生きがいの問題について考える。しかし、真の生きがいを得るには自身の充実と幸福だけではなく、人倫を尊重し、現在の時代状況を注視しながら、ヒューマンな社会が実現されるように一定の参加をしなければならない。そして、第二次世界大戦後でありグローバリズムの時代である現代において、私たちは意志と知性、実存と理性が結びついた豊かな展望を持って「良心的ヒューマニズム」の立場に立って、態度決定やそれなりの政治参画をし、また各自の使命や役割における生きがいの達成のために人生を生き尽くさなければならない。

主にハイデッガーとヤスパース、サルトルの実存主義とドイツ系の哲学とくにドイツ観念論、カント、フィヒテ、シェリング、ヘーゲル、そして、プラトンやエピクロス、エピクテトス、セネカと言った古代哲学や文学、ギリシャ神話、キリスト教、仏教などの幅広い知見を用いて生と死、愛、幸福、生きがいといった「語りえぬ」の人生の問題について深く追及していく。(筆者がそのように考えているかはわからないが、)宗教、特に一神教に替わるものとして、人生の意味や価値、肯定、倫理、救いを与えてるものとして哲学を扱い、そういったものとして哲学を考え、普遍的で大きな広義の生と死、普遍愛、幸福、他者・社会との関係性構造、人生の意味の構造を描き出していく。「語りえぬ」ものを語っているからこそ、全体はドイツ観念論的なキリスト教的色彩を帯びていて、哲学的根拠のある「宗教的なもの」、語りえぬものを語り、言葉によって言葉を超えていく、宗教に替わるものとしての哲学のあり方や価値を人間のLebenの問題の範囲の中で徹底的に追及している。

真摯で熱意を感じる本であるが、考察の前提やプロセスの部分で教科書的に(この本は元々、放送大学のテキストだが)良きこと・善きことを決めつけているところやコモンノウリッジで考えているところ、その決めつけによって説明を省いているところがある。その一方で、教科書的という範囲を超えて、理想主義的、精神論的、ポジティヴィズムによる記述や表現がある。その意志や情熱を保持しながら、哲学的思考や哲学的真理に基づいて「正しく」人生の構造的普遍的課題を認識して、「良心的ヒューマニズム」によって現代人が本当によく生き充実した生活を送るための思想をこの本は示している。

あらゆる人が、それぞれの人生の持ち場で、それなりの仕方で、ヒューマンな人類社会の歴史的形成に参画しなければならない。そうしたなかでのみ、各自の人生行路の実りも、個と普遍、部分と全体、意志と知性、実存と理性とを繋ぐ豊かな展望をえて、しっかりと着実に、時代の現実のなかに根ざして、大きく成長するであろう。各個人のそれぞれの持ち場での実感と体験、個別と特殊の状況、そのかけがえのない独自な人生経験は、時代の現実のもつ普遍と全体の構造、その複雑多岐にわたった意味連関とその交錯、その共通した広範な人類史的脈絡と、共鳴し合い、振動し合って、そこに彩り豊かな人生模様を生み出すはずである。私たちは、そうした人生の複雑な襞と綾のなかに織り込まれ、浮沈しながら、人生の柵のなかで、各自、必死に生きがいを求め、人生行路を歩んでいるのである。(p.386)

目次:I 生と死を考える/II 愛の深さ/III 自己と他者/IV 幸福論の射程/V 生きがいへの問い/単行本版 まえがき/付録「研究室だより」人生とは何か/解説 人情あふれる哲学教師としての渡邊二郎 森一郎/人名索引

『人生論』レフ・トルストイ(新潮文庫、岩波文庫)

生命を哲学的にその本質を問うことから始まる生命(life)論としての人生論。動物の生命と人間の生命の理解と対比からトルストイは人間の生が時間と空間に規定されずそれらを超越する集合的歴史的なもので「世界に対する関係」だと考える。人間の理性的意識をよく用いて快楽の欺瞞と死に対する恐怖を退け、愛という人間の唯一の理性的活動によってあらゆる人が他者を愛し他者の幸福のために生きることが真の幸福である。

生命とは、理性の法則に従った動物的個我の活動である。理性とは、人間の動物的個我が幸福のために従わねばならぬ法則である。愛とは、人間の唯一の理性的な活動である。(p.143)

『人生論ノート』三木清(角川ソフィア文庫、新潮文庫)

幸福や虚栄、人間の条件、孤独、利己主義、秩序、娯楽、旅など様々なテーマにおいて、考察と批判、虚無や矛盾の認識によって人生の意味とは何か、現代人はいかによく生きるべきかを表す哲学倫理学エッセイ集。付属する「語られざる哲学」は、若き筆者が語られざる哲学=懺悔によって自らの生活や学問に対する態度の中の傲慢や虚栄心、利己心を徹底的に批判・反省し、真理を尊重する謙虚で剛健な哲学者として生きる決意を示す。

人生が運命であるように、人生は希望である。運命的な存在である人間にとって生きていることは希望を持っていることである。(p.146)

『人生論・愛について』武者小路実篤(新潮文庫)

『生きるということ』エーリッヒ・フロム(紀伊国屋書店)

ストア派

『生の短さについて』セネカ(岩波文庫)、『人生の短さについて』セネカ(光文社古典新訳文庫)

「生の短さについて」は、仕事や享楽に忙殺されず、哲学と徳を大切にし、欲望を制御し生命ををよく活用するなら人生は長いとする。「心の平静について」は、欲望、猜疑心、未練や嫉妬に悩まされず心を平静に保つには、どんなことにも執着せず、必要以上の多くの財産や金銭を持たず、無理な栄誉や達成を求めず、程よい中庸な生活を送り自分を信頼することが大切だとする。「幸福な生について」は、幸福な生とは、自らの自然の本性に合致した生であり、どこまでも快楽を求めるのではなく、理性と徳によって自分のもっているものを受け入れ満ち足りた喜びを感じる生であるとする。最高善とは精神の調和である。(光文社古典新訳文庫版は、「幸福な生について」ではなく「母ヘルウィアへのなぐさめ」が収録されています。

ストア哲学では理性によって欲望と感情から解放されることで心の平静を得ること、快楽ではなく徳こそが善であり幸福の条件だとした。(快楽には悪徳であるものもあり、快楽によって不幸な人もいる。)倹約によって財の使用や所有を適度な範囲にとどめ、「みずからの自然に合致した生」が幸福な生だとした。しかし、「ストイック」という単語のイメージと違って過激な禁欲は求めていない。過度な禁欲や貧困の状態では、善き理性や精神を養うことができないからである。

ヨーロッパの教養の基礎となる本ですが、論文というよりは友人への書簡というかたちで書かれていて読みやすく、現代でも役に立つ実践的な考え方や教訓がたくさん詰まった名著です。

『自省録』マルクス・アウレリウス・アントニウス(岩波文庫、講談社学術文庫)

『人生談義』エピクテートス(岩波文庫)

『語録 要録』エピクテートス(中公クラシックス)

『ギリシア・ローマ ストア派の哲人たち セネカ、エピクテトス、マルクス・アウレリウス』國方栄二(中央公論新社)

日本で数少ない本格的で包括的なストア哲学の解説書。キュニコス派やアリストテレス、エピクロス派といったストアのルーツからゼノン、キケロ、セネカ、エピクテトス、マルクス・アウレリウスの諸説を検討し、「ストイックに生きる」とは何か、理性的に生きどのように幸福になるか、というストア哲学の本質を描き出そうとする。

『エピクロスとストア Century Books 人と思想』堀田彰(清水書院)

前半はエピクロスの生涯と規準学・自然学・倫理学に分けてエピクロスとルクレティウスの快楽主義を解説する。後半はエピキュリアニズムと対立するようで類似するストア哲学を、キティオンのゼノンの生涯とゼノンやセネカ、エピクテトスの思想を紹介し、同様に知識論・自然学・倫理学に分けてストア哲学の理論を解説する。

その他

『エピクロス―教説と手紙』エピクロス(岩波文庫)

3つの手紙と主要教説、2つの断片集、エピクロスの生涯と哲学の解説が収められている。「ヘロドトス宛の手紙」は、自身の倫理学のベースとなるヘロドトスに強い影響を受けた原子論の自然哲学の体系が簡潔に述べられている。「ピュトクレス宛の手紙」は、自然哲学のうち特に気象学と天体と天界についての理論が述べられている。「メノイケウス宛の手紙」では、自身の倫理学のエッセンスと思慮によって善く生きることのすすめが述べられる。主要教説と断片は、文章量としては短いが、エピクロスの特に快楽主義の倫理学の考えが十分に理解できるものになっている。

『快楽主義の哲学』澁澤龍彦(文春文庫)

エピクロスの快楽主義をベースにして、ストア派の禁欲主義やダンディズム、サディズムも取り込んで孤高の隠者・精神の貴族として自らの快楽を追い求める快楽主義を積極的・煽動的に肯定する。そして、現代日本の商業主義的・大衆的でレジャー思考の快楽のあり方を批判する。

言い換えれば、本書の主張とは、日常の幸福よりも非日常の快楽を、将来をめざした長期的計画よりも今この瞬間を生き尽くす充実を、そのためには何よりも人並みの凡庸ではなく孤高の異端をという、単純明快な煽動なのである。(解説より)

『孤独と不安のレッスン』鴻上尚史(だいわ文庫)

孤独は悪いものでも恥ずかしいものでない、自分との対話である「本物の孤独」は、豊かな時間と成長を与えてくれ、鴻上さんが30人に1人いるという本物の孤独を理解してくれる人と出会うことに導いてくれる。どんなチャンピオンや成功者でも次に負けたり失敗をする可能性はあり「絶対の保証」はなく誰でも不安を無くすことはできない、不安を「前向きな不安」として次の行動やチャレンジのきっかけにすべきだという。劇作家・演出家の鴻上尚史の自身の経験と観察に基づいた人生のアドヴァイス集。

「一人であること」は、苦しみでもなんでもありません。「本当の孤独」を体験した人なら分かりますが、ちゃんと一人でいられれば、その時間は、とても豊かな時間です。(p.21)

「本当の孤独」とは、自分とちゃんと対話することなのです。(p.23)

『君たちはどう生きるか』吉野源三郎(岩波文庫)

子どもたちのために小説のかたちを使って書かれた教養主義・人生論の古典。

『星の王子さま』アントワーヌ・サン=テグジュペリ(新潮文庫)

童話のかたちを借りた現代社会批判・風刺であり、子どものような想像力や視線で書かれたかけがえのない純粋で美しい物語。そして、本当に大切なこととは何かを教えてくれる大人こそが読む返すべき人生論・幸福論でもある。

「じゃあ秘密を教えるよ。とてもかんたんなことだ。ものごとはね、心で見なくてはよく見えない。いちばんたいせつなことは、目に見えない」(p.108)

『二十歳の原点』高野悦子(新潮文庫)

恋愛と学生運動に悩み鉄道自殺を遂げた立命館の学生の瑞々しさとニヒリズムが入り混じった詩的で哲学的な日記。

人間は完全なる存在ではないのだ。不完全さをいつも背負っている。人間の存在価値は完全であることではなく、不完全さでありその不完全さを克服しようとするところにあるのだ。(p.7)

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『人生論ノート』三木清(角川ソフィア文庫、新潮文庫)要約

幸福

過去の哲学者にとって、幸福が倫理の中心問題であった。ストア主義は幸福のための節制を説いた、アウグスティヌスやパスカルも人はどこまでも幸福を求めるということを哲学の基礎とした。幸福について考えないことは現代人の特徴である。幸福について考える気力を失うほど不幸であるか、幸福を考えることが不道徳だと感じるほど不幸なのではないか?しかし、幸福を知らない人が本当の不幸が何なのか理解できるだろうか?

良心とは幸福の要求である。幸福の要求ほど良心的なものはない。以前の倫理学は幸福の要求がすべての行為の動機だということを共通の出発点にした。幸福のない倫理は、どれだけ論理的だったとしても虚無主義にしかならない。

幸福はただの感性的なものではなく、主知主義と倫理上の幸福説が結びつくことを思想の歴史が示してる。現在の反主知主義は幸福説を拒否することから出発している。

幸福は徳に反するものではなく、幸福そのものが徳である。他者の幸福について考えなければならないが、自分の持っている幸福以上の善いことを他者に与えることができるだろうか?

「人格は地の子らの最高の幸福である。」というゲーテの言葉は完全な定義である。幸福になるということは人格になるということである。幸福は肉体的快楽と精神的快楽、活動と存在、どの中にもある。人格は肉体でも精神でもあり、活動でも存在でもある。また、人格はそれらの複合作用により形成されるものである。現代は人格の分解の時代であり、これは逆に幸福が人格であるということを証明する。

懐疑について

懐疑は知性の一つの徳である。懐疑は人間特有のものであり、人間的な知性の自由さは懐疑のうちにある。モンテーニュの最大の知恵はその懐疑に節度があるということだ。真の懐疑者はソクラテスであり、懐疑が無限の探究だということを示した。

真の懐疑は成熟を示すものである。方法についての熟達は教養の最も重要なものだが、懐疑の中に節度があることが最も教養的なことである。

懐疑は精神の習慣性を破るものであり、それは知性の優越を現している。確実なもの、つまり目的は形成されたものであるが、原理は不確実な根源であり、懐疑はその根源へ関連づけることで確実なものを導く方法である。懐疑によって形成された人生は確実なものである。

虚栄について

虚栄は人間的自然の中の最も普遍的で固有な性質である。人間の生活は実体のないものでありフィクショナルなものである。つまり、人生はフィクション=小説である。人生の実在性は物的なものではなく、小説の実在性と同等で、実体のない人生がどうやって実在性を持つかということが根本問題となる。

人間的なパッションはヴァニティ=虚無から生まれ、その現象において虚栄的である。人間的創造は虚無の実在性を証明するためにある。虚栄によって滅亡しないために、人は毎日の生活において虚栄的であることが必要であり、それが人生の知恵である。

虚無の実在性を証明する創造的な生活によって虚栄をなくすことができる。創造はフィクションを作ることであり、フィクションの実在性を証明することである。

名誉心について

どんなに厳格な人も名誉心を放棄しないだろう。ストイックというのは名誉心と虚栄心を区別して、後者に誘惑されない人のことである。虚栄心は社会を対象にするが名誉心は自己を対象にし、名誉心は自己の品位についての自覚である。ストイックは本質的に個人主義者であるが、その品位が名誉心に基づく場合、その人はよき意味における個人主義者である。

人間の条件について

自己は虚無の中に浮く一つの点である。生命は虚無ではなく、虚無はむしろ人間の条件である。生命とは虚無を搔き集める力であり、虚無からの形成力である。虚無の集積によって作られものが虚無ではない。

私は自己は世界の要素と同等なものには分解されず、世界の異なるものとしてあると考える。世界が人間の条件であることによって虚無はそのアプリオリである。世界のものは、虚無であるものとして人間の条件である。

虚無は人間の条件あるいは人間の条件であるものの条件なので、人生は形成であるといことが導き出される。自己は形成であり、人間は形成されたものであり、世界も形成されたものであるから、それは人間の生命にとって現実的に意味のある環境となる。

生命は関係でも関係の和でも積でもなく、虚無から形成された「形」である。古代哲学は実体概念いよって思考し、近代哲学は関係概念または機能概念によって思考したが、新しい思考はそれら二つの総合として「形の思考」でなければならない。

現代人はアノニムなだけはないアモルフな無限定な世界に住んでいる。テクノロジーや交通の発展はすべてのものを関係づけ実体的なものを分解し、かえってそれを厳密に限定した。しかし、現代の世界は限定され尽くされた結果、形としてはかえって無限定なものになっていて、それが現代人の無性格につながっている。

孤独について

孤独には美的な誘惑があり、味わいがある。孤独の中のより高い倫理的意義に達することが重要である。

孤独によって私は対象の世界を全体として超えている。孤独な時、人は物から滅ぼされはしない。孤独を知らない時、人は物において滅ぶ。

瞑想について

瞑想は甘美であり、人はそれを欲する。

魅力的な思索は瞑想のミスティックで形而上学的なものに基づいている。すべての思想は、本来、甘いものである。

瞑想は甘美なものであるから人を誘惑する。だから、真の宗教はミスティシズムに反対する。瞑想がその甘さに誘惑される時、それは夢想か空想になる。

利己主義について

私たちの生活の原則はgive and takeであり、意識的でなければ利己主義者にはなれない。利己主義者は自分の自意識に苦しめられる。

実証主義は本質的に非常であり、その果てが虚無主義である。利己主義者は中途半端な実証主義者であり、自覚のない虚無主義者である。利己的であることと実証的であることは自己弁護のため、他社攻撃のため入れ替えられる。

利己主義者は期待しない人間で、信用もしない人間なので、常に猜疑心に苦しめられる。

すべての人間が利己的だとする社会契約説は、想像力のない合理主義が生み出した。社会の基礎は契約ではなく期待であり、期待の魔術的拘束力によって社会は構築される。

秩序について

一見、無秩序に見えるものの中にこそ秩序は存在し、外見的なものよりも心の秩序が大切であり、そこには温かさと生命の存在がある。

秩序は常に経済的なものであり、最小の費用で最大の効率をあげるという経済原則は秩序の原則でもある。節約は秩序尊重の一つの形式であり、大きな教養そして宗教的な敬虔に近づく。節約は倫理的な意味も持ち、無秩序は多くの場合浪費から起こる。心の秩序は金銭の使用にも関連する。

心の秩序は知識だけではんく、能力=技術の問題である。このことが理解され、その能力や技術が獲得されなければならない。ソクラテスは技術の比喩を用いて徳は心の秩序だと言った。

道具技術から機械技術への変革のようなものが道徳の領域にも要求される。「作ることによって知る」という近代科学の実証的精神が、道徳においても必要である。

仮説について

生活は事実であり、経験的なものであるが、思想には常に仮想的なところがある。考えるということは生活の一部分であるが、それが生活から区別されるのは考えるということの中に「仮説的に考える」ということが本質的に存在するからである。

確実なものは不確実なものによって生まれるが、その逆ではない。確実なものは形成されるものであり、この形成する力が仮説である。

人生も仮説的なものであり、それはそれが虚無につながるためである。人々はそれぞれの仮説を証明するため産まれてくる。だから人生は実験である。人生は小説家の創作行動に類似し、その仮説は単なる思惟ではなく、構想力あるいはフィクションを作る力に属する。論理的意味でなく存在論的意味において人生の仮説は不定なもの、可能的なものである。人間の存在は虚無を条件とするだけはなく虚無と混合されている。その仮説の証明は小説と同じように創造的形成=実験でなければならない。

常識を思想から区別するのは、それには仮説的なところがないことである。常識はすでにある「信仰」であり、信念はいらない。

娯楽について

生活を楽しむことを知らねければならない。それが「生活術」であり、技術であり、である。生活の技術によって、どこまでも生活の中にいて生活を超えることによって生活を楽しむことが可能になる。

娯楽は、他の仕方における生活である。かつては宗教的なものと祭りだけが娯楽であった。近代的生活の分裂から娯楽の観念が生じた。生活の一部分であるはずの娯楽が生活と対立させられている。近代的生活は非人間的になったが、その生活に苦痛を感じる人が求める娯楽も非人間的なものでしかない。

祭りは他面の秩序であったが、現在では生活と娯楽は対立している。その根源に現代の秩序の思想の欠如がある。

パスカルは、より高い秩序から見ると、生活のあらゆる行為は、真面目な仕事も道楽も全て余技でしかないと考えた。この思想に回帰することが生活と娯楽の対立を払拭するために必要である。娯楽の概念の基礎にも形而上学がなければならない。

現代の文化の堕落の原因の一つが、文化に対する専門外の娯楽的な接し方であるといえる。現代の教養の欠陥は、教養が専門とは別の娯楽の形式によって求められることが原因となっている。「娯楽を専門とする人」が出現し、純粋な娯楽が作られ、娯楽は生活から離れてしまった。そして、一般人にとって娯楽は参加するものではなく、ただ外から見て享楽するものになった。

しかし、本来は、娯楽が生活になり生活が娯楽にならなければならない。それらが人格的統一をもたらす必要があり、生活を楽しむこと=幸福がその際の根本概念でなければならない。娯楽が芸術になり、生活が芸術にならなければならず、また、生活の技術は生活の芸術でなければならない。娯楽は生活の中にあって生活のスタイルを作るものである。娯楽はただ消費的・享楽的なものではなく、生産的・創造的でものでなければならず、単に見て楽しむだけではなく、自分で作ることによって楽しむことが大切である。

体操とスポーツだけは生理に働きかける「健全な娯楽」であり、私は娯楽の中でそれだけは信用できる。それは身体ではなく精神の衛生である必要がある。

生活を楽しむ人はリアリストで、技術のリアリズムを持っていなければならない。本当に生活を楽しむには、生活において発明的で、特に新しい生活意欲を発明することが重要である。それができる人はディレッタントとは区別される創造的な芸術家である。

希望について

運命というものの符号を逆にしたものが希望である。人生は運命であり、希望でもある。人間は運命的な存在なので生きているということが希望を持っているということである。

生きることは「形成する」ということであり、希望は生命の形成力である。我々の存在は希望によって完成へ向かう。希望による形成はからの形成という面があり、運命とはこの無ではないか?希望は無から生じるイデーによる力である。

旅について

旅に出るということは、日常の生活環境や習慣的な関係や行動から逃れることである。旅の嬉しさとはこの解放の嬉しさである。人生から脱出するために旅に出る人もいる。なので、旅の対象は自然や自然的生活となる。旅は人々に漂泊の感情を抱かせる。そこに旅の感傷がある。

漂白の感情は移動の感情であるが、むしろそれは宿に落ち着いた時に感じられる。短距離の一泊の旅であっても人はその「遠さ」の感情を味わう。旅の心は遥かであり、この遥けさが旅を旅にするのである。旅の中で人は浪漫的になり、また浪漫とは遠さの感情である。

旅は絶えず過程であり、その途中を味わうことができない人は真の旅の面白さを知らない。私たちは日常生活では常に到達点や結果のみを問題とするが、そこから脱出する旅は本質的に観想的なものであり、それが旅の特色である。人生に対する旅の意義はそこにある。旅において人々は純粋に「見る人」になることができ、日常の既知のものや自明のものとして前提にしていたものに対して新しい驚異や好奇心を感じる。旅は経験であり、教育でもある。

「どこからどこへ」ということは人生の根本問題であり、人生は未知のものへの漂白である。「どこへ行くか」という問いは、「どこから来たか」を問わせる。過去に対する配慮は未来に対する配慮から生じる。漂泊の旅はノスタルジアを伴うのと同様に人生の行路は遠く感じるが、だからこそ人は夢見ることや想像をやめないだろう。観想によって、旅は人生を味わわせる。そして、距離や長さに関係なく旅で出会うのは自分自身である。旅は人生そのものの姿である。

旅の真の自由は「ものにおいて」の自由であり、動即静あるいは静即動に徹した人だけが真に旅を味わうことができる。その人は人生においても真に自由な人である。人生が凝縮されたものが旅である。

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商品詳細

人生論ノート 他二篇
三木清
KADOKAWA、東京、2017年3月25日
648円、304ページ
ISBN: 9784044002824

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  • 解説 岸見一郎

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