『空気の研究』山本七平(文春文庫)レジュメ

「空気」とは日本の組織において、個人の意思決定を拘束する、論理的な結果ではない絶対的な何かである。日本人は無色透明な「精神的な空気」によって何かわけのわからぬ絶対的拘束をされている。それは素人から専門家まで、大問題から日常の問題、突発事故まで我々の行動や意思決定を支配している基準である。「空気」は人々に一定のパターンの行動をとらせたり強制させるが、そのことを口にしてはならない。

「空気」は大きな絶対権をもった一種の「超能力」であり、それに意見し抵抗すると「抗空気罪」に処せられる。戦後に「ムード」と言われているのは空気であり、空気が竜巻状になったものが「ブーム」である。

「空気」は非常に強固で絶対的な支配力をもつ「判断の基準」だが、この基準を指摘することはできない。論理の積み重ねで説明することができないから「空気」と呼ばれているのである。私たち、日本人は論理的判断の基準と空気的判断の基準のダブルスタンダードのもとに生きてる。しかし、現実にはこの二つは明確に分けることはできない。「空気」は論理的判断や論理的議論の積み重ねによって作られるが、人工的操作ではなく、言葉の交換の中で無意識に不作為に自然発生的に醸成され、意思決定の際には「空気」が論理なものよりも優先される。また、空気は意図的に醸成された時よりも、自然発生的に出て来たものの方が宗教的絶対性をもち問題を起こしやすい。

物質の背後に心理的・宗教的・霊的な何かが臨在しているという臨在感があり、それが現実に影響を与えるということが日本人の「空気」の考え方の特徴であり、ひとつの物神化の形式である。(この物事や人の背後や周辺には霊や気が漂っているという物神化をあくまで排除し、「空気」の支配から逃れることが西洋哲学と一神教の特徴である。)この臨在感は感情移入から始まるが、感情移入の無意識化・生活化によって感情移入だと考えないことで絶対化する。また、臨在感的把握は歴史的所産であるが、それが常に歴史観的把握で再把握されない時、絶対化する。

空気支配の一つの原則は「対立概念で対象を把握すること」を排除することである。例えば、ある人を「善と悪という対立概念」で把握することは、悪の側から見ればその悪は善であり絶対化し得ない、あるいは、ある人が善・悪という絶対的基準に拘束されるので、空気の支配は起こらない。

「空気」を外国語に訳すなら、プネウマやルーア、アニマに相当する。その原意は「風・空気」であり、古代人は息・呼吸・気・精・魂・精神・非物質的存在・精神的存在などという意味にも使った。それは目に見えぬ力であり「人格的な能力をもって人々を支配してしまうが、その実体は風のように捉えがたいもの」(p.57)である。

「神の名」などの偶像化された言葉以外の言葉は、すべて相対化することができる。言葉はすべて相対化されなければならない。人間の使う言葉に絶対といえるものは皆無であって、ほとんどの命題を対立概念で把握しなければならない。そうしなければ、人は言葉を支配できず、言葉の偶像化による空気支配が起こってしまう。

多数決は、相対化された命題の決定にだけ使える方法であって、論証や証明は多数決の対象ではない。また、多数決はある命題を対立概念で把握し、各人の意見の「質」を「数」という量に表現するという決定方式でしかない。日本では、会議内と会議外の「空気」によって人々の把握の賛否のどちらかが表に出るかということが変わってしまうという「空気の支配下におけるジグザグ型相対化」の問題がある。

「空気」は日本が中東や西欧と違い、自らやその集団の決断が常に集団や国家の存亡に常に関わる問題ではない国だからこそ発生してきた。明治時代までは、日本人は「空気の支配」に対して「水を差す」ことで対抗していた。「水」とは「世の中はそういうものじゃない」、あるいはそれと同じことの逆の表現である「世の中とはそういうものです」という形で、その言葉が出てくる基の矛盾には触れず、経験則を元に空気を打ち破る方法である。

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「空気」の研究 (文春文庫) [ 山本 七平 ]
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商品詳細

空気の研究
山本七平
文藝春秋、東京、1983年10月25日
255ページ、715円
ISBN 978-4167911997
目次

  • 「空気」の研究
  • 「水=通常性」の研究
  • 日本的根本主義(ファンダメンタリズム)について
  • あとがき
  • 解説 日下公人

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『共通感覚論』中村雄二郎(岩波現代文庫)レジュメ

『共通感覚論』中村雄二郎(岩波現代文庫)レジュメ

第一章 共通感覚の再発見

私たちは生きている限り何かをつくり、表現しなければならない。そのためには知識や理論や経験が無ければないが、それらはただ独立したものではなく、日常経験と結びついたものでなければならない。一方で、それは共通性と安定性をもつ<常識>として固定されている。その常識の自明性やわかりきったこととしての性質が問い直されなければならない。

ここで要求されるのは、総合的で全体的な把握であり理論化される以前の総合的な知覚である。常識とは<コモン・センス>であり、総合的な全体的な感得力(センス)という側面がある。現在では、コモン・センスは社会的な常識、人々が共通(コモン)に持つまっとうな判断力(センス)という意味で用いられている。しかし、コモン・センスとは、本来は、諸感覚(センス)に渡って共通(コモン)でそれらを統合する感覚、五感にわたってそれらを統合して働く総合的で全体的な感得力(センス)、つまり<共通感覚>なのである。

社会的にまっとうな共通した判断力として常識は18世紀のUKで使われ一般化したものであり、そのルーツはキケロなど古代ローマの思想まで遡ることができる。

共通感覚の淵源はアリストテレスのsensus communisにあり、それは感覚のすべての領域を統一的にとられる根源的な感覚能力である。また、共通感覚により、「甘い香り」「甘い音色」「甘い考え」などのような表現ができる。そして、私は共通感覚によって単一の知覚では感覚できない運動、形、数などを知覚でき、想像力は共通感覚のパトスを再現する働きであり、共通感覚は感性と理性を結びつけるものである。

通常は外在化した常識の基礎として内在する共通感覚は想定されるが、私は共通感覚を中心に表立てて、社会的常識をその中に含ませたい。常識は「曖昧さを含んだ日常の知」とも「学問的知よりも洞察力を含んだ知」ともとれる。私はそれを「出発点としての常識」と「到達点としての常識」として区別してきた。それらを共通感覚として考え直すなら、日常の様々な物事を捉えるだけでなく、それらを存在させる地平そのもの、自明性を形づくっているものの把握をするものとして常識を捉えることができる。また、この共通感覚と常識は自明ではないもの、あたりまえではないもののを覆い隠している。しかし、時に、共通感覚によって自明ではないもの、普通ではないものが浮びあがることがある。

戸坂潤は、常識(真っ当な判断力)が欺瞞的なものになっているとしながらも、その積極的な批判力を回復させようとした。常識は非科学的、非哲学的、非文学的な消極的・否定的な知識である、一方で、ノーマルで実際的で健全な実態の知識でもある。その矛盾は常識の曖昧さであるが、それとともに常識の開かれた可能性でもある。

戸坂は<内容としての常識>と<水準としての常識>の区別を立てる必要があるとした。水準としての常識とは、知識の総和を平均した単なる「知識水準」ではなく、独自なノルム(規準)であり、健康でノーマルであること健全であることが理想的で優れたことであるように、標準的であり理想的なものとしての規準である。このノーマル(ノルム的、標尺的)であるものが人々の自己を高める動的端緒(イニシエーション)として現れる。真の常識とは目標あるいは水準としての常識である。

<社会通念としての常識>は社会生活の基礎としてなければならないが、それは安定して繰り返されるために、固定化され惰性化され、多様な現実に対応できなくなる。この常識は共通感覚による五感の統合の仕方が問い直され、組み換えられて<豊かな知恵としての常識>によって打ち破られなければならない。その二つは弁証法的関係を形づくっている。

ジャンバッティスタ・ヴィーコは科学が真実の上に成り立っているように、コモン・センスは蓋然的な真実の上に成り立っている、と言った。蓋然的な真実に対するわれわれの感覚は、真理の不十分な認識ではなくて、もっと広範囲で根底的なものである。科学的な正しさや真実の方がコモン・センスの上に成り立っている。コモン・センスの本質は科学的な知識からみる物事の在り様に加えて周囲の事情に照らして判断を行うことである。

アリストテレスが<共通感覚>と名づけた感受性は、人間と世界とを根源的に繋ぎ、世界を現前させる働きを持つ。これが欠ける時、世界は単なる「感覚刺激の束」としてのカオスでしかない。共通感覚は積極的に現勢的に世界を構成する<構想の能力>である。

マルクスは感性と五感のそれぞれの作用と感覚は歴史的に形成され変化してきたものだとした。歴史の中で五感の秩序は組み替えられてきた。ルソーはコモン・センスは「個々の諸感覚のよく規整された使用」によって生まれるとした。それは、諸感覚の伝える事物の内容を相互に結びつけることによって事物の本性を教えてくる<第六感>と呼ぶべきものである。現在、マクルーハンのいうように、知覚世界の人工化とコミュニケーション・メディアの発達によって「感覚麻痺」と「感覚閉鎖」の問題が起こっている。それは、例えばテレビによる視覚の優位などである。

終章

現代の自明性の危機の時代において、感覚の次元からの知の組み替えが要求されている。主体的・主語的な感覚統合である視覚的統合優位の時代に対して、諸感覚の基体的・述語的統合である<体性感覚>的統合に大きな展望がある。

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共通感覚論 (岩波現代文庫) [ 中村雄二郎 ]
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商品詳細

共通感覚論
中村雄二郎
岩波書店、東京、2000年1月14日
398ページ、1540円
ISBN 978-4006000011
目次

  • はじめに
  • 第一章 共通感覚の発見
  • 第二章 視覚の神話をこえて
  • 第三章 共通感覚と言語
  • 第四章 記憶・時間・場所(トポス)
  • 終章
  • 現代選書版あとがき
  • 現代文庫版によせて
  • 解説 私事と共通感覚 木村敏
  • 索引

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