一
「空気」とは日本の組織において、個人の意思決定を拘束する、論理的な結果ではない絶対的な何かである。日本人は無色透明な「精神的な空気」によって何かわけのわからぬ絶対的拘束をされている。それは素人から専門家まで、大問題から日常の問題、突発事故まで我々の行動や意思決定を支配している基準である。「空気」は人々に一定のパターンの行動をとらせたり強制させるが、そのことを口にしてはならない。
「空気」は大きな絶対権をもった一種の「超能力」であり、それに意見し抵抗すると「抗空気罪」に処せられる。戦後に「ムード」と言われているのは空気であり、空気が竜巻状になったものが「ブーム」である。
二
「空気」は非常に強固で絶対的な支配力をもつ「判断の基準」だが、この基準を指摘することはできない。論理の積み重ねで説明することができないから「空気」と呼ばれているのである。私たち、日本人は論理的判断の基準と空気的判断の基準のダブルスタンダードのもとに生きてる。しかし、現実にはこの二つは明確に分けることはできない。「空気」は論理的判断や論理的議論の積み重ねによって作られるが、人工的操作ではなく、言葉の交換の中で無意識に不作為に自然発生的に醸成され、意思決定の際には「空気」が論理なものよりも優先される。また、空気は意図的に醸成された時よりも、自然発生的に出て来たものの方が宗教的絶対性をもち問題を起こしやすい。
三
物質の背後に心理的・宗教的・霊的な何かが臨在しているという臨在感があり、それが現実に影響を与えるということが日本人の「空気」の考え方の特徴であり、ひとつの物神化の形式である。(この物事や人の背後や周辺には霊や気が漂っているという物神化をあくまで排除し、「空気」の支配から逃れることが西洋哲学と一神教の特徴である。)この臨在感は感情移入から始まるが、感情移入の無意識化・生活化によって感情移入だと考えないことで絶対化する。また、臨在感的把握は歴史的所産であるが、それが常に歴史観的把握で再把握されない時、絶対化する。
四
空気支配の一つの原則は「対立概念で対象を把握すること」を排除することである。例えば、ある人を「善と悪という対立概念」で把握することは、悪の側から見ればその悪は善であり絶対化し得ない、あるいは、ある人が善・悪という絶対的基準に拘束されるので、空気の支配は起こらない。
五
「空気」を外国語に訳すなら、プネウマやルーア、アニマに相当する。その原意は「風・空気」であり、古代人は息・呼吸・気・精・魂・精神・非物質的存在・精神的存在などという意味にも使った。それは目に見えぬ力であり「人格的な能力をもって人々を支配してしまうが、その実体は風のように捉えがたいもの」(p.57)である。
七
「神の名」などの偶像化された言葉以外の言葉は、すべて相対化することができる。言葉はすべて相対化されなければならない。人間の使う言葉に絶対といえるものは皆無であって、ほとんどの命題を対立概念で把握しなければならない。そうしなければ、人は言葉を支配できず、言葉の偶像化による空気支配が起こってしまう。
多数決は、相対化された命題の決定にだけ使える方法であって、論証や証明は多数決の対象ではない。また、多数決はある命題を対立概念で把握し、各人の意見の「質」を「数」という量に表現するという決定方式でしかない。日本では、会議内と会議外の「空気」によって人々の把握の賛否のどちらかが表に出るかということが変わってしまうという「空気の支配下におけるジグザグ型相対化」の問題がある。
八
「空気」は日本が中東や西欧と違い、自らやその集団の決断が常に集団や国家の存亡に常に関わる問題ではない国だからこそ発生してきた。明治時代までは、日本人は「空気の支配」に対して「水を差す」ことで対抗していた。「水」とは「世の中はそういうものじゃない」、あるいはそれと同じことの逆の表現である「世の中とはそういうものです」という形で、その言葉が出てくる基の矛盾には触れず、経験則を元に空気を打ち破る方法である。
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商品詳細
空気の研究
山本七平
文藝春秋、東京、1983年10月25日
255ページ、715円
ISBN 978-4167911997
目次
- 「空気」の研究
- 「水=通常性」の研究
- 日本的根本主義(ファンダメンタリズム)について
- あとがき
- 解説 日下公人