<アーバニズム> 【urbanism】「生活様式としてのアーバニズム」ワース 一般には、都市を志向する社会・文化的諸形態。ワースの概念では社会的に異質な個人の、相対的に大きい、密度のある、永続的な集落である都市に特徴的な集団的生活の様式。これは人間生態学・社会組織・社会心理学の3つの側面から捉えられる。(1)空間的凝離、社会移動(2)家族の社会的意義の減少、親族や近隣の結合の弱化、自発的集団の続出、身分的階級制度の崩壊、ホワイトカラーの増大(3)無関心の態度、パラノイア的性格、主体性の喪失、相対的な志向様式や寛容的態度、などの仮説によって具体的に示される。総じてワースは<第二次的接触>を強調した。
<市> 【market, Markt, marché】 財貨交換の交換の機会あるいは場所。語源的にも市は価格を公平に定める場の意をもち、抽象的概念(市場交換)としてばかり捉えることはできない。もともとは完成の市が主だったが、余剰生産物が増えるにつれて市も自然経済から商品経済に移行し、商業・分化の集中する都市へと展開した。また、市の多くは古代交通路の要所を占め、異文化接触の場としても機能し、沈黙交易から宗教・風習・言語などを交換する場にも展開した。
<イデオロギー> 【ideology, Ideologie, idéologie】マルクス、アルチュセール 人・自然・社会についての一貫性と論理性をもった表象と主張の体系。人々が自己と周囲の自然や社会を全体的にとらえようとして、その時代の社会における経済構造に結びつけてそれらを理解するとき、そこに形成される社会的意識形態。思想や観念の内容を純粋に内面的に理解する仕方をイデア的といい、思想や概念をその担い手の社会的基盤に関連づけ、その利害を反映しているものと考える仕方をイデオロギー的見方という。それは諸個人の生活に根底的な意味を与え<価値体系>、自己と環境世界および両者の関連についての合理的認識をもたらし<分析体系>、自己の願望と確信によって潜在的エネルギーを意志的に活性化する<信念体系>とともに、具体的なイッシューについての日常的な意見の体系<政治的プログラム>を提起する。このような内容をもった意識形態が現実に特定の階級や組織によって担われるとき、それを<社会的イデオロギー>と呼ぶ。 イデオロギーは、認識的機能だけでなく社会的機能をもっている。イデオロギーには、現存秩序と権力の正当化機能がある。イデオロギーの政党か機能が有効に働くためには、社会構造に参加する人々の同意を必要とする。この同意や合意を密かに取り付ける機能はイデオロギーに固有の働きである。その場合、イデオロギーは物質的・制度的媒体を必要とする。アルチュセールによれば、この媒体は、家族、学校、マス・メディア、裁判所などを含むすべての社会的・国家的諸制度である。イデオロギーは、暴力による強制とは違って、穏やかに秩序への自発的服従を人々の意識のなかに植え付け、諸個人が秩序を担い、維持し、それに進んで服従する「主体」を絶えず構築し続ける。
<イメージ> 【image, Bild, imago】『ザ・イメージ』ボールディング、バシュラール ある対象についてもつ人の概念・判断・態度をもたらす表象の総体で、認識枠より広い社会的・文化的内容をもつ。一般には、対象を再生的に心に思い浮かべる像をあすが、単に対象についての直感的・感覚的な表象を意味することも多い。ボールディングは『ザ・イメージ』において、環境世界や自己について真実であると信じている主観的な知恵をイメージと呼び、「行動はイメージに依存している」という前提のもとに、社会生活、経済生活、政治生活などにおけるイメージの役割について考察している。ガストン・バシュラールは、人々は多くの既成イメージに取り囲まれており、知覚によって獲得されたそのような固定的イメージをデフォルメし、そこからわれわれを解放する働きとして想像力を捉えた。
<意識> 【consciousness, Bewusstsein】 一般的にいえば、直接に与えられた諸個人の精神的経験の総体。具体的には、哲学的概念と心理学的概念が区別される。哲学的にはまず第一に、諸個人の生活経験のなかで、物質的もしくは身体的経験に対立する意味での心的経験をさす。カントのの<意識一般>(先験的経験)はその典型例である。第三に、無数の条件的刺激に対する諸個人の反応行動の総体を意味する場合がある。ライプニッツの<統覚>はこのような意味における意識をさしている。他方、心理学的には、広義の意識とは「知」「情」「意」の全体のことである。そして、具体的な生活経験において、それらは一定の核をもったまとまりを示している。その核を<意識の焦点>と呼ぶ。またその不明瞭な小片部分を<意識の辺縁>と呼ぶ。このような構造を持った意識は、フロイトの「無意識」の部分によって媒介されて諸個人の生理的・生物的欲求と結びつく、一方、経験の時間的経過に規定されて、ジェームズが「意識の流れ」と呼ぶ変転現象を示すことになる。
<インナー・シティ> 【innner city】 大都市中心市街地に隣接する、土地利用の曖昧な遷移地帯をさす。20世紀システムとしての大都市では、この遷移地帯がスラム化、社会病理症候群の集中を招くとの判断から、市街地再開発ではクリアランスの対象となったが、21世紀システムの大都市では、市街地居住の可能性から、インナー・シティの再生・復権が大都市の衰退と再生の戦略テーマとなっている。
<映像文化> 【culture of the visual image, culture de l’image】 写真、映画、テレビなどがつくり出す新しい感覚や思考・行動の様式。これらは19c以降の複製技術がつくった文化だという点で共通する。ベンヤミンによると、瞬間の映像を定着化した写真は、人の表情や身振りにひそむ「無意識の視覚の世界」を人々に知らせた。マクルーハンによると、感覚のレウ゛ェルでは、写真や映画が視覚の拡張であるのに対し、テレビは触覚の拡張にとどまらず、すべての感覚を深層において相互作用させるメディアであり、すでに完成させたものより、出来上がっていくプロセスを、そのプロセスに人々を参加させることを武器とするメディアである。
<エピステーメー> 【episteme】『言葉と物』フーコー ギリシア語で「知識」の意味。思考の営みが具体的に可能になり、様々な言説が交差し、連関する一つの場。所与の時代における深層の認識論的な場であり、諸科学を生み出す言説的実践を統一しうるような諸関係の総体ないし布置。抽象的な一個の体系や規範に還元されるものではない。各時代固有の布置は歴史的なア・プリオリであるが、相互に非連続である。 16cルネサンスのエピステーメーを支配したのは「類似」の原理である。17、18cの古典主義時代のエピステーメーは「表彰の分析論」、19c以降の近代のエピステーメーは「有限性の分析論」として理解される。
<エロス/タナトス> 【Eros/Thanatos, life instinct/death instinct, Lebenstrieb/Todestrieb】『快楽彼岸の法則』フロイト、『エロスとタナトス』ブラウン、メラニー・クライン フロイトは、エロスとタナトスの対立において、欲動を愛と憎しみといったエンペドクレス的二大原理の対立のなかで描こうとしている。エロスとは性欲動という枠をはるかに越え、生物にあまねく存在し、その成長を促し、より大きな統一と維持、発展と躍動とに導き、死を遠ざけるものとされている。タナトスとは、生以前の分離離散した無機的状態へ立ち戻ろうとする傾向全体を指し、結合や統一の破壊という保守的退行的な側面をとらえて用いられる。自己破壊衝動や反復脅迫は、タナトスの表れとみなされる。 フロイトは、悪魔的なものの反復回帰の現象に対して、エロスの側からのみ接近することに限界を感じ、エロスの深層に横たわり欲動の原型とでもいうべき基本的なものがあるとの仮説を打ち出すようになっていった。そしてエネルギーを蕩尽し、等質空間に戻ろうとするタナトスのこの傾向をより根本的なものと考え、エロスさえも結局はこの欲動に仕えているようなものだと明記するようになる。 タナトスは、フロイトの悲観的な未来への展望の一要因となっている。N.ブラウンはここからより明るい人間論を展開し、『エロスとタナトス』において、タナトスを越える生と愛を強調する著書をあらわした。 メラニー・クラインによると乳児は、快・不快を外的対象に分裂、投影した後、快を自らのものとして取り込み、不快を排除することでこの局面を切り抜けていくという。人は出生時から統合を目指すにはあまりに深い分裂を内部に刻み込まれた存在となってしまったのである。この欠陥動物として取り返しようもなく引き裂かれた人間という思想の理解なくして、フロイトの二大欲望論を理解することはできない。
<快感原則> 【pleasure principle, Lustprinzip, principe de plaisir】『科学的心理学草稿』フロイト フロイトは、快・不快の原則についてエネルギー経済論的な立場から触れ、不快とは心的興奮量の高まりを指し、快とはそれを解放することであるとの説明を行っている。さらに心的過程は内的、外的刺激によって高まる興奮量を低下させることを本質とするとし、これが後に快感原則の定式化につながる考えとなっていく。 快・不快の原則とは、生の圧力によって生じる興奮量の増大たる不快の出現を待って動き始める原則である。そして不快という増大するエントロピーの放出とその散逸系をめぐって、心的装置はその構造を形成し、それを明確にしていくとフロイトによって仮定されている。ある種のニューロンは興奮量の通過を妨げ、それを内部に蓄積する一方、それによってニューロン内の構造を変化させ、その通過を容易にする方向に動いていく。この快楽原則に奉仕する神経組織内部の変化の永続化により、記憶はその成立を確保する場を見出す。そうなると快の記憶の再生とそれを保障するこの過程の支持を受けて、表象は生産され、その自由な交流が確立する。しかし、もしこの散逸系がうまく作動しなかった場合、そこには歪んだ形の心的装置ができあがり、快の再生を基本とする表象や記憶の形成に支障を生み、表象と欲動の分離など、一時過程そのものが破綻をきたすことになる。こうした快感原則を中心とした願望充足の基本的パターンの破壊は、分裂病問題などと密接に係わり、現代精神分析においてしばしば論じられているところである。
<科学> 【science, Wissenschaft】 語源はラテン語のscientiaで、「知識」全般をいう語だった。それが知識のなかでも特別な対象、特別な方法論、特別な身分をもった「科学」の意味で使われ始めたのは、19世紀に入ってからである。19世紀のヨーロッパでは知識の分化が顕著で、それまでphilosophyという一つの有機的な体系だったものが、様々な領域に分かれ始めた。 科学とは、客観的、普遍的、実証的なデータに基づいた自然についての特権的な知識体系である、という科学館が、一般にも広まっている。20世紀に入って、技術の進歩が著しく、その技術を支えるものとして「科学技術」という新しい形態をとるようになって、科学の「有用性」が強く印象づけられ、その特権性は広く受け入れられている。 現在の科学の内容上の特徴は物質還元主義にある。世界に生起するあらゆる現象を、基本的な物質単位の振る舞いに還元するというこの立場は、現在の科学の基本のイデオロギーとなっている。
<活字文化> 【culture of print】『メディア論』マクルーハン、ベネディクト・アンダーソン 15世紀中期のグーテンベルクの活版印刷技術にともなって生まれた、新たな人間文化。活字文化の発達は、人のコミュニケーションのあり方を変えることで、大きな社会的変動を生み出した。マクルーハンは、活字文化の登場を人の感覚の変容と結びつけて考察している。ベネディクト・アンダーソンに見られるように、印刷資本主義の発展を、<想像の共同体>としての近代国民国家形成と結びつける議論などもある。
<環境> 【enviroment, Umgebung, milieu】 環境は自然環境、社会環境、記号環境の総体であり、「自然」—「人間」—「社会」の客観的な「空間」の布置を意味する。環境の主体としての人は、来れたの客観的環境のなかから有意味な諸条件を取り出し、それらとの間に関係のシステムをつくり上げる。これが人の捉えた環境である。こうした主体依存的環境を行動的、心理学的ないしは認知的環境という。客観的環境に対する人の適応は、環境の象徴化を通して行われる。認知的環境は、人が客観的環境に対して下した定義づけの所産である。また人が直接的に接触することのできる環境を直接的環境とよび、他者を媒介にして接触する環境を間接的環境とよぶ。現実環境と擬似的環境という対比もある。 環境の一般的な重要性は、モンテスキュー、ゴビノー、デュルケームなど、フランスの思想的伝統によって強調されてきた。しかし、今日の文脈では、第一に、パーソンズの社会システム論に対するヘンダーソンの「環境の適合性」の理論、第二に、シュッツの現象学的社会学の「生活世界」論に対するユクスキュルの「環境世界」の理論、第三に、現代社会における「情報化」の展開のもとでの記号環境の肥大を分析するうえでのリップマンの「擬似的環境」の理論、が重要であろう。「行為—関係」の諸過程のなかで、人々の意識によって「主観化」的にとらえられた環境〜有意味化された環境〜がユスキュルの「環境世界」であり、社会調査で用いられる「ライフ・ステージ」の概念へと展開して行く。
<記号> 【signe, sign】 ある事象が現存していないのに、その事象が引き起こすのと同様な反応を有機体のうちに喚起する刺激。記号は、事象に代わるものとして、事象の性質を指示あるいは意味する。記号の指示作用は一般的には、記号と事象との関係についての複数の有機体の間に成立している共有の了解ないし約束にもとづいている。記号がコミュニケーションの有効な媒介物となるのは、この共通性によってである。 エミール・パンウ゛ェニストによれば「記号の役割とは、その代替物という資格で他の事象を喚起することによってこれを表象するものであり、これにとって代わるもの」であるし、ビュイサンスによればによれば、こうした代行・再現物のうち、発信者にコミュニケーションの意図がはっきりしている「信号」のことである。 ソシュールの記号観が従来のそれに対するラディカルな批判と見なされるのは、「実在とその表象」なる図式が、すでに言葉や用具による分節が行われ歴史的化石となっている特定共時的文化現実内においてしか成立せず、汎時的視点から見た文化とは、それ自体が、本能図式に存在しなかった過剰としての言葉によって生み出された「記号=共同幻想」である、と考えた点にある。記号がいかにもオリジナルを指差す代用品のように見えていたのは、非実体的・恣意的関係が物化した結果の錯視のせいである。文化においては、オリジナルをもたないコピーがまた別のコピーを紡ぎだす自己増殖の動きしかないという考え方であって、これはのちのボードリヤールの<シミュラークル><実在の砂漠> と行った概念を用意するものであった。
<記号環境> 人を取り巻く環境は、自然環境と社会環境とに大別されるが、個人が事故の感覚受容器によって直接近くできるのは、環境のうちのごく一部に過ぎず、多くの部分は文字や言葉や映像などの記号を通して間接的に近くするほかない。このように記号の媒介によって提示される環境像を記号環境とよぶ。ほぼ同義的な用語としてシンボル環境、情報環境などがある。現在、記号環境を形成する最も有力な媒介因はマス・メディアである。
<記号学/記号論> 【semiology/semiotics, sémiologie/sémiotics】 記号と記号にかかわる人間的・文化的・社会的現象を対象とする学問領域。 アリストテレスに端を発しストア学派によって体系化された。ロック、パース、モリスなど近代以降のアングロ=アメリカン系統を<記号論>(semiotics)と訳し、ビュイサンス、プリエートなどソシュールに始まりロラン・バルトに至るヨーロッパ系統を<記号学>(semiology)と訳す。 記号論は、諸記号間の関係、記号と指示対象の関係分析など、制度としての記号内現象を主たる対象とする。 ストア学派の定義によれば、記号の典型である言葉とは音声である「セマイノン=意味するもの」と概念である「セマイノメノン=意味されるもの」の二項からなる。これはアウグスティヌスによって「シグヌム=シグナーンス/シグナートゥム」に改作された。シグナーンスとは、感覚に訴える与件としての音声であり、シグナートゥムとは他言語に翻訳可能な超越的意味である。 現代言語学においても、エミール・パンウ゛ェニストによれば、「記号の役割とは、その代替物という資格でほかの事象を喚起することによってこれを表象するものであり、これにかわるもの」であり、エリック・ビュイサンスによれば、こうした代行・再現物のうち、発信者にコミュニケーションの意図がはっきりしている「信号」のことである。 欧米における記号の研究は、「ロゴスと声」「事物と名称」「観念と表象」の二項関係に限られてしまう。例えば、その関係を事実的類似性に基づく<イコン>、事実的隣接性に基づく<インデックス>、文化的隣接性に基づく<シンボル>に分類するパースやヤコブソンの記号論がその典型である。 記号学では、言語、人の表情・身振り、アート、神話、伝説、宗教、メディアとその表示物、建築、都市、つまりの人の表現物である文化一般、(ときには自然も)記号として捉え、これらの人にとっての本質的意味と、これらにかかわる人の行動とを研究の対象としている。 ソシュールの記号観が記号論のそれに対するラディカルな批判と見なされるのは、「実在とその表象」なる図式が、すでに言葉や用具による分節が行われ歴史的化石となっている特定共時的文化現実内においてしか成立せず、汎時的視点から見た文化とは、それ自体が、本能図式に存在しなかった過剰としての言葉によって生み出された「記号=共同幻想」である、と考えた点にある。記号がいかにもオリジナルと指差す代用品のように見えていたのは、非実体的・恣意的関係が物化して結果の錯視のせいである。文化においては、オリジナルをもたないコピーがまた別のコピーを紡ぎだす自己増殖の動きしかないという考え方であって、これはボードリヤールの<シミュラークル><実在の砂漠>と行った概念を用意するものだった。 何らかのもの・こと・ひとに対する社会的行動は、つねに広義の意味が介在している。したがって、記号学/記号論の知見は、社会的存在としての人の行為の理解に寄与している。
<擬似環境> 【pseudo-enviroment】『世論』リップマン 人が自分の頭のなかに描いている。環境についてのイメージをいう。それは現実の環境の正確な反映ではなく、部分的な省略や強調、誤認や歪曲などを含んでいるので、真の環境に対する擬似の環境と名付けられた。これの固定したものがステレオタイプである。人の適応行動は擬似環境にもとづいてなされるため、往々にして現実環境に対する不適応を招くことがある。現代人の環境イメージの大部分は。マス・メディアが媒介するシンボルを素材としていることから、リップマンの定義とは別に、マス・メディア提示する環境像を擬似環境とよぶこともある。
<機能分化> 【functional differentiation】 分化は社会学において長い歴史を持つ概念であるが、主として社会変動の理論において用いられる。これは、ある一つの社会制度によって遂行されてきた一連の社会活動が、別々の複数の社会制度に別れて遂行されるようになる過程を指している。分化は社会の諸部分がますます専門化していくことを表しており、それは社会内部のより大きな異質性をもたらす。 機能分化とは特定の社会的・文化的項目でさまざまな機能を遂行していたものが、機能を異にする相互に異なった二つ以上の項目に分化する過程を示す。とくに近代化により、経済や政治は、それぞれ機能的に特化した社会システムによって遂行されることをいう。
<鏡像段階> 【stade du miroir】ラカン 鏡に映った自己像に対する幼児の一連の反応の観察にヒントを得て練り上げられた概念。幼児は、運動機能の未成熟に基づく「バラバラの身体」の幻想に対して、ゲシュタルト心理学でいうプレグナンツをもった自己の鏡像を創造的に先取りする。鏡像段階は、自我というものが、他者とのナルシシシズム的同一化によって形成されるといった事実を示す。
<近代経済学> 【modern economics】 1870年代にオーストリアのウィーンで興り、イギリスで陶治され、50年代以降アメリカでさらに彫琢を施され出来上がった経済学を、新古典派経済学という。この経済学は、アダム・スミスを継承する市場万能を説く経済学である。他方、30年代の半ばケインズは、市場機構の不完全性の認識に端を発する、新しい経済学を提案した。ケインズの経済学は、失業などの病弊を治癒するためには財政金融政策の援用が不可避だと説く。これら二つを融合した経済学を新古典派総合の経済学という。近代経済学とは新古典派総合の経済学の通称であるといえる。近代経済学という呼称は日本に特有のもので、マルクス経済学との対比を際立たせるために用いられてきた。
<空間> 【space, Raum, espace】 普通は物や人が配置される等方的で均質的な容器のようなものとして理解されるが、時間が単なる事実の継起と異なるように、空間は方向性と広がりを持った経験であり、単なる物や人の布置とは明確に区別される必要性がある。近代人の空間概念を長く支配してきたニュートン的な絶対空間やカント的な認識の先験的形式としての空間が、一つの抽象の結果に過ぎないことを明らかにしたのは、一方では現代物理学における場の理論や非ユークリッド幾何学の、他方ではフッサール以降の現象学の功績である。ハイデッガーの用語でいえば、空間は目の前の存在である以前に手もと存在なのであり、その根底には距離を取り去り・方向づける配慮的な見回しの働きがある。空間は、メルロ=ポンティの述べるように可能な活動の場の系としての身体が世界をつかむ方式なのだ。空間が境界を持ち構造化されているのは、世界が空間として生きられるからに他ならない。このような生きられる空間の構造化を文化人類学の立場から分析した先駆的業績としてホールのプロクセミックス論がある。
<グーテンベルクの銀河系> 【the Gutenberg Glaxy】『グーテンベルクの銀河系』 活字文化を内在化させた人の誕生について考察し、新しい映像メディアが開く可能性について予言的に考察したメクルーハンの書物。口述的・写本的伝統からの人の精神世界の歴史的な離陸を、英文学史や文化人類学の素材を使いつつ論じ、さらに新しい映像メディアであるテレビが、その活字支配を成立させていた感覚比率を変え、新しい「電子的銀河系」への再編成・再統合が起こりつつあると論じた。
<経済> 【economy, Ökonomie, Wirtschaft, économie】 経済とは、物的な欲求充足のための、人と人、人と自然との間の相互作用が、社会的に強制された過程のことである。経済は、本来、それだけが独立に存在するのではなく、社会のなかに「埋め込まれた」ものとしてあり、その意味で、19世紀に自己調整的システムとして成立した市場経済は、経済が社会から突出したきわめて特殊な例といえる。 単なる機能性の次元を越えた文化的要素を組み込んだ生産、流通、消費の過程が経済なのであり、それを分析するのが経済学である。
<現実原則> 【reality principle, Realitiätsprinzip】『精神現象の二原則に関する定式』フロイト 即時的で直接的な欲堂の充足を遅延させあるいは断念させ、現実に添った迂回路を付け、より間接的な仕方で目的達成へと導く心的過程の原理を指していう。これは意識—自我—エスの局所論モデルにおいては、自我の審級によって行使される原則を示すものである。さて一般に現実原則は、一時過程に対応する快感原則の対局に位置する思考の二次過程を支配するものとされている。しかし両者の関係は等置できるものような対等なものではなく、あくまで快を追求するため目前の不快に一時耐えるという、快感原則優位を前提に、それに奉仕するものとして成立している。
<行為> 【action, Handeln, conduite】ヴェーバー、パレート 行動がシンボルによって媒介された有意味的なものである場合、それを行為と呼ぶ。したがって、行為の概念は行動概念の特殊な場合であり、シンボルによって媒介され、理解可能な目的達成過程を中軸とする人の行動の独自性を強調している。
<構造主義> 【strusturalism, structuralisme】 狭義には、1960年前後からフランスを中心として捲きおこり、全世界に波及した新思潮。レヴィ=ストロース、アルチュセール、ロラン・バルト、ラカン、フーコー、ピアジェ、ゲルーがその旗手。広義には、ゲンティンゲン学派やブルバキ・グループ、ソシュール言語学、ロシア・フォルマリズムなど、その先行形態を含めたより広い思想運動。これらに共通するのは、対象の実在やその本質を安易に想定せず、形式化された分析手法によって浮かび上がる「構造」に注目することである。 フランス構造主義は、近代の「主体中心主義」をのりこえ、主体を包括し、主体の思想と行動を決定づけ方向づける「構造」の概念をもって文化と社会の理解を一変させた。ソシュール言語学は、言語は構造を持った全体で、言語は相互の連関によってのみ定義されると考えた。そのように、社会は個人の算術的合計ではなく、それ独自の「構造」を持つ。また、文化は単なる個々人の制作物ではなく首尾一貫した構造を持つ。この観点から、レヴィ=ストロースは個々の現象やその合理的な説明を超えた構造論理を明らかにすべきであるとした。未開社会の神話分析では、個々の要素よりも意味の関係の二項対立の束を把握することで、人の精神の普遍的特質=「構造」を明らかにした。この方法論は他分野に影響して、ラカンは、フロイトが着手した無意識の世界も「構造」を持つことを明らかにした。アルチュセールは、マルクスを「構造論」として再解釈した。フーコーは、文化史も単なる観念や作品の歴史ではなく、無自覚だが明確な「構造」をもつことを明らかにした。 構造主義は、60年代のレヴィ=ストロースとサルトルの論争以降、ひとつの思想的立場「構造の哲学」へと転換し始める。人間的主体(主観性)は世界の中心でも世界の能動的形成者でもなく、逆に主体は構造の中の一要素であり、構造が作る諸関係の結節点と見なされる。構造主義は、社会観・人間観の大転換を行った。 70年頃から、その静的性格・歴史性の欠如・形式論をポスト構造主義によって非難された。
<行動> 【behavior, Verhalten】 身振りや発話など言語的・非言語的次元で人や動物が示すふるまいのこと。そのふるまいを意識的に行っているかは問わない。外部から観察できる行動を<あらわな行動>(overt behavior)、そうした観察をてがかりにして直接観察できる行動を<かくれた行動>(covert behavior)という。思考や感情などは、かくれた行動の一部である。ある行動が学習の結果によるものかどうかという点から、<生得的な行動>(innate behavior)と<習得的な行動>(acquired behavior)とを区別する場合もある。行動のなかで行動する者の意図がかかわりをもつ面を<行為>として区別する。社会学の対象はおもにこの行為であって、<微視的行動>などは直接の対象とならない。行動主義的には内的・外的刺激に対する反応として、システム論的にはシステムの出力として、理解社会学的には主観的に有意味な経験として、というように多様な位置づけがなされる。
<高度大衆消費時代> 【age of high mass consumption】『経済成長の諸段階』ロストウ 工業化の最終段階とされるもの。成熟期以降の社会は、その経済力を1.軍事・外交2.福祉3.消費水準の向上に配分するが、1と2の飽和とともに3の比重を増すとする。資本主義も社会主義もここに収斂する。
<誇示的消費> 【conspicuous consumption】『有閑階級の理論』ヴェブレン、『物の体系』『消費社会の神話と構造』ボードリヤール 経済学者ソースタイン・ヴェブレンの造語。現代社会において、個人が上流階級、とくに有閑階級に属していることを象徴するために富や財、サーヴィスを大量に惜しげもなく無駄に消費する行為。そこでは消費が自己目的化している。現代の大量消費社会における消費の機能変化を鋭く指摘した概念として、ボードリヤールなどの社会分析の道具として継承、発展させられている。
<古典派経済学> 【classical school of political economy, école classic】 近代資本主義社会を対象とし、その経済諸過程に統一的な理論体系化を成立させた最初の経済理論。アダム・スミス、リカードによって成立・発展をみギリスの古典派経済学は、資本家的商品経済を労働価値論に基づいて統一的に解明するものだった。彼らはいずれの社会形態にも共通する労働生産過程を商品経済的に絶対視するという特徴=欠陥をもったが、経済学の理論的領域をほぼ確定し、原理的体系化という作業を明確化した。社会科学としての経済学は、彼らによってはじめられた。
<再生産> 【reproduction, Reproducuktion】『資本論』マルクス、『再生産』ブルデュー 以前の生産の結果である生産物を消費して再びあらたに生産を行うこと。生産の反復・継続、したがって再生産は社会が存続する基本的条件であり、生産の過程は、その更新の流れの中で見れば、同時に再生産の過程である。あらゆる社会を貫く、再生産の一般的な条件=法則は、(1)生産手段と労働力とが社会的生産物によって補填されなければならない、(2)そこで社会的生産物は生産手段か消費手段かの形態を形態をとらなければならない、(3)そこで社会の生産は、生産手段生産部門と消費手段生産部門とから成るのであって、この両部門のあいだで、生産物の何らかの交換が行われなければならない、(4)社会的総生産物から生産手段の補填分を除いた純生産物には、労働力の再生産に必要な生産物すなわち必要再生産物と、それを超える余剰生産物とが含まれていなければならない、ということである。
行為、社会関係、地位、階級・階層関係などが先行条件に規定されつつ同形的に形成される過程をさすが、こうした過程は単なる反復的生産ではなく、時間の中での変換を伴いつつ生じるものである。類似の社会的地位が親から子へと伝達されるといった世代的再生産、社会構造の全体的趨勢がある時間の経過を通して近似性を示すといった構造的再生産などを区別することができる。
<ジェントリフィケーション> 【gentrification】 主として大都市インナー・エリアにある、労働者階層の老巧化した住宅や荒廃したビル・倉庫などを復興・再開発し、中・上流階層の近隣社会に転換する過程。1970年代後半以降の先進国大都市のインナー・シティ衰退現象に関し、その活性化という文脈で用いられたが、その背景には脱工業化や世界都市化に伴う都市の再構造化がある。再開発する側と当該地区から排除される低所得者層との間には、空間を巡る紛争が起こり、近隣再生とはいえない事態が生じた。
<市場> 【market, Markt, marché】 市場(いちば)を理論的に抽象化して市場(しじょう)概念が作られるが、それは取引の成立するあらゆる場所をさす。一つの物品に一つの市場が成立し、各市場が集まって国民市場が成立する。近代国民経済は全面的に市場経済である。しかし純理論的市場概念だけでは、市場の本性も近代市場経済の本性も理解できない。歴史的には市場は共同体と共同体の間で成立する。市場はつねに必ず共同体の外部にあった。市場あるいは商業は、共同体の外部また周辺に封じ込められ共同体への侵入を阻止されていた。ギリシアのアゴラは現実的にもイデオロギー的にも「外なるもの」であり、商人はつねに「外の人」が担当した。未開社会でも古代ギリシアでも近世ヨーロッパでも市場は最も卑しい場所でだった。同時に市場は、聖なる物の性格を帯びており、特別の自由空間または祝祭空間であった。市場から成立した自由空間はアジール空間であった。自由都市の自立性は市場の聖性と不可分である。 この外部としての市場は、徐々に共同体へ入り込んできたが、近世初頭までは共同体を全面的に解体するまでには至っていない。しかし、重商主義・絶対主義の時代は、共同体経済の解体期であり、この時期が終わる頃には、共同体のメンバーはアトム化する。資本主義的市場経済は、モノと人とのアトム化の上に成立し、共同体とは違う社会構成となる。人類史は<共同体経済>と<市場経済>に二分できる。近代資本主義市場経済では、人とモノが全面的に「外なるもの」になり、聖性が全面化することで聖性が消滅する。 市場を基礎とした経済理論は、自由経済あるいは自由企業経済とよばれ、多数の供給者と需要者のすべてが自由に、かつ合理的に市場での私的取引に参加し、市場価格の決定に参加する<完全競争>を前提としている。市場経済における生産を方向づける力は、個人消費者にあると考えられ、それは消費者が所得を様々な商品の購買に振り分けて、欲望や選好を充足することによってなされる。
<シミュラークル> 【simulacre】『シミュラークルとシミュレーション』ボードリヤール、ドゥルーズ 模擬物、模造品を意味する語だが、ボードリヤールはこの語で現代の揮毫世界を示す。ドゥルーズやボードリヤールによると、それははじめから原型を持たない記号存在である。万物はシミュラークルである。制作者(デーミウルゴス)を欠いた特異な在り方は、原型/模型論で議論を立てる形而上学によって無視されてきた。ポスト構造主義による形而上学批判の主要なポイントの一つである。本物/偽物、オリジナル/コピー、実存/表象、指示対象/記号の区別が消え、コピーやイメージや記号はオリジナルや実在から解放され、前者の項の交換・組み合わせのシミュレーションが展開する。
<シミュレーション> 【simulation】『シミュラークルとシミュレーション』ボードリヤール シミュラークルから派生した語。普通コピーと混同されるが、コピーではない。オリジナルなき記号の生産システムをシミュレーションという。現代消費社会は、記号としてのモノを生産=複製する。鏡の部屋のように、万物が万物を模倣する。ボードリヤールは現代をシミュレーションとシミュラークルの時代とよぶ。原型を仮定する思想と行動は崩壊し、どこにも根差さない記号の流動がおきる。ORが開発するモデル分析は現実を現実をシミュレートする。この場合のシミュレーションは、単なる現実の模倣ではなくて、現実の未知の部分を分析し、現実に積極的に介入する計画的行動を促す。
<社会意識> 【social consciousness, gesellschaftliches Bewußtsein, conscience sociale】 さまざまな階級・階層・民族・世代その他の社会集団が、それぞれの存在諸条件を維持し、あるいは変革するための力として作用する、精神的な諸過程と諸形象。広義には個人意識や生活意識をも含むものとして用いられるが、通常、社会心理とイデオロギー諸形態とから成る狭義の社会意識として、個人意識に対立・対比される場合が多い。典型的には、デュルケームの集合表象のように個人意識に対立する外在性と独立性とによって、個人意識と社会意識の接合を図ろうとする考え方が支配的である。
<社会学主義> 【sociologism, sociologisme】 デュルケームまたはデュルケーム学派の方法論的立場。社会現象を生物学的・地理学的とりわけ心理学的要因とは区別された社会学的要因(個人意識に外在する社会的事実、集合表象など)によって説明しようとする。とくに方法論的個人主義をしりぞけ、社会現象の万般にわたる総合社会学的な観点を用意して、社会学固有の説明原理を確立しようとした。だが、社会現象の内在的理解の発展に貢献したもの、歴史的変動過程の把握や人間主体の社会への働きかけの認識に弱さがある。
<社会決定論> 【social determinism】 人間の意志や行為も含めて何らかの個人現象ないし部分的社会現象が、ほかの部分的社会現象ないし総体社会のあり方によって決定されるとする見解。経済が究極的に規定的であるとするマルクスの唯物史観やデュルケームの社会決定論がその例。
<社会圏> 【social circle, sozialer Kreis】ジンメル ある共通な社会的性質を分有し、一定の輪郭をもった社会的相互作用を反復している人々の範囲をさし、人々の単なる集合体から集団に至る広い意味範囲をもつ。ジンメルによれば、社会の拡大と分化は、社会圏の多元的な分化と個人のそれらへの分属を意味する。個人は彼が分属する圏の増加にともなって、いわば社会権の交点として自己において社会権を交錯させ、独自の個性を示し、強固な自我意識をもつようになる。
<社会的行為> 【social action, soziales Handeln】ヴェーバー、パーソンズ 社会的行為の概念を最も一般的に規定するなら、シンボルによって媒介されている行動、ないしは文化的水準にある人間行動のことであり、「行為」の概念と同じ内容をもつことになる。この意味での概念規定としては、主観的な意味付与がされている限りでの人の行動(ヴェーバー)、規範によって制御され目標達成に向かう動機づけエネルギーの消費過程(パーソンズ)、といったものが代表例である。つぎにその概念規定を「社会的」ということばに重点をおいてより限定的にきていすれば、他の人々の行動に、向けられた限りでの行為(ヴェーバー)という意味内容が与えられる。社会的行為の分析のポイントは、行為者の主観的意図とともに行為の客観的帰結を捉えることにある。 ヴェーバーの狭義の社会的行為の概念内容は、<相互行為>とほぼ同じ概念ないようである。しかし、パーソンズは相互行為の意味での社会的行為を「行為」と表現する。 人にのみある言語能力と道具能力に注目して、社会的行為の基礎を言語能力に求めると、コミュニケーション論への展開が可能になり、道具能力に求めると、技術と労働に基づく社会的資源配分論への展開が可能になる。したがって、社会的行為は社会学的分析の出発点となる。
<社会的事実> 【social facts, faits sociaux, fait socil】『社会学的方法の規準』デュルケーム デュルケームが、社会学の研究対象を総称的に述べた概念。社会や集団の成員が個人意識を持っていながら、また外部から一定の行為様式、思考様式、感情様式によって何らかの拘束を受けるが、この社会や集団からの拘束ないし強制作用のこと。それは、一種の表象であるという点で有機的・物理的現象ではないし、個人意識に内在していないという点で心理現象でもなく、あくまで社会的・集団的性格をもつ独自の総合物であり実在である。また、それは個人にとって外在的であること、個人に拘束をかするものであること、という標識によって客観的に認識されうる。この社会的事実を「物のように」(comme des choses)観察の与件とし、認識し、研究することをデュルケームは方法上の要請としている。社会的事実は、法規則、宗教教義、様々な制度などの結晶化した事実と、集合的な観念や感情など「社会的潮流」とよばれるべき事実とに区別されているが、後者も本質的には、個人にとって外在性と拘束性という特徴をもっているという点で共通のものである。
<社会的風土> 【social climate】 ある社会に固有な制度的・慣習的特性をさすこともあるが、もともとはグループ.ダイナミックスの用語で、集団成員間の相互関係、とりわけリーダーシップのあり方に強く規定されて生じる集団の雰囲気をいう。
<集合意識> 【collective consciousness, conscience collective】デュルケーム 個人意識を基体としながらそれとは異なった独自の性格をもち、個人意識に対して外在的でかつ個人意識を拘束するところの、成員に共通な信念と感情の総体。具体的には社会成員の行為様式。
<集合表象> 【collective representation, représemtation collective】デュルケーム デュルケームは、個人表象と集合表象を区別し、社会は人の表象から成立し、複数の個人の意識の一種独特の結合・総合から集合表象は生まれるとした。それは個人表象に外在し、かつこれを拘束するものであって、その意味で両者はまったく別個の存在であり、社会とは集合表象であるともいえる。 また、集合表象は個人にとって優越性、神聖性として経験されるような社会的事実の特徴にも関係し、尊崇や愛着の対象にも成りうる。デュルケームは、今日でいう社会現象の創発特性に着目していた。一方、集合表象は個人表象から切り離されてしまったとの印象があり、集合表象の超個人的実体化であるという批判もあびせられてきた。 デュルケームは、この概念を確立し、社会学の方法論的個人主義の立場を拒否して客観主義の立場に立つことができた。レヴィ=ストロースは、この概念の提起した問題意識から、無意識会の構造主義的分析に進む示唆を得た。
<集合力> 【collective force, force collective】『自殺論』『宗教生活の原初形態』デュルケーム 社会的事実、集合意識の作用をエネルギーの面からとらえた概念。『自殺論』では集合力は、自殺傾向など世論の潮流の働きとして説明された。『宗教生活の原初形態』で集合力は、集合的沸騰状況で人の個我意識を超えた大きな力の経験として生まれ、宗教的象徴と結合してタブー・道徳規範などの規制力になり、あるいは革新的な象徴と結合して既存秩序を脱構築する力にもなるとされる。
<消費> 【consumption, Konsumtion, consommation】 辞書的には、費やしてなくすこと。使い尽くすこと。経済学的には、欲望の直接・間接の充足のために財・サーヴィスを消耗する行為。生産と表裏の関係をなす経済現象。 世界の諸物が多面的性格を持つように、それらを消費する行為も多面的である。まず、消費には「モノの有用性(使用価値)を消費する」という側面がある。「役立ち」の消費は、直接に身体に吸収することばかりではなく、生活にとってのモノの有用性を利用=使用することを含む。人間が互いに提供しあうサーヴィスの利用も消費である。この消費の主観的側面は「欲求=必要の充足」である。経済学の消費概念は基本的にこの消費概念である。 つぎに、「モノの社会的価値を消費する」という面がある。「社会的価値」とは、あるモノを使う(消費する)ことによってその人の社会的評価(ステータス)が決まる事態をさす。この文脈では人々はステータス表示器としての諸物を競って持ちたがる。ソースタイン・ヴェブレンはこの消費行動を<誇示的消費>とよんだ。ボードリヤールは、「記号としての物の消費」とよんだ。人々は、有用物としての物ではなく、社会関係の網の目の観念を消費するのである。現代消費社会を駆動している欲望は、この「記号=モノ」への欲望である。消費社会の人間は記号を観念的に消費する。生理的欲求充足としての消費がなくなるわけではないが、それを覆い尽くすほどの記号欲望と記号消費が大きくなった。モノの経済と共に記号の経済が生誕した。 消費は、生産と消費のつい概念によってとらえられることが多いが、本質的には「完成」「成就」を意味するconsummationとの連関において理解されるべきである。それが労働の場合であれ、コミュニケーションの場合であれ、「行為」によって実現・表現された人間的自然の対象化諸形態は、交換という「関係」に包摂されないときには、消費によって「行為」の「完成」と「成就」を迎えていた。しかし、現代社会のように、「生産」と「消費」が分離・対立させられ、それら両者が「商品」と「貨幣」の交換によってばいかいされている「関係」の重層構造のもとでは、人々は、一方では「生産」の側面で労働力商品としての自己の人間的自然の諸力を「売却」し、他方、「消費」の側面において「商品」を「購買」することによってコンサマトリーな感性と欲望を充足する。人間的自然は、生産の地平ではインストゥルメンタルな「行為—関係」過程のうちに「手段」と化した自己を見出し、消費の地平では商品市場のターゲットと化した「客体」としての自己を見出す。 現代は、消費像の変革を迫る時代である。モノ/記号の蓄積・再生産過程の方向転換を模索しなければならない。システムを縮小する必要がある。ここにもうヒトルの消費像が浮かび上がる。それが蕩尽としての消費である。モノの象徴交換と象徴的消費は、社会関係の階級分化と権力肥大化を抑制する未開社会の知恵であったが、この種の消費行動を再考してみてもよいはずである。 また、現代社会が高度消費社会の現状分析とともに、さらにメルロー=ポンティが示唆している方向で、「自己成就」「自己完成」としての新しい「行為」の概念を理論化する必要に迫られている。
<消費革命> 【comsumption revolution】 社会全体の生活様式、とくに消費様式のめざましい変化。日本では1956年の神武景気に始まる経済の高度成長を景気にして、社会的規模での生活水準の上昇と、耐久消費財の普及をはじめとする生活様式の急激な変化が生じた。消費革命は日本社会全体に都市的生活様式を浸透させ、生活様式の均質化を促進するとともに、価値の多様化を生み出した。
<消費社会> (消費者社会) 【comsumptive society, consumer society, société de consommation】『経済学批判要綱』マルクス『物の体系』『消費社会の神話と構造』ボードリヤール 消費は新しい欲望を創造し、生産の対象を内的な像として、欲望として、衝動として、目的として観念的に措定することを通じて、生産物に対する人々のさまざまな欲求を形成する。こうした点では消費は生産の契機として現れる。このような生産と消費との密接な結びつきのもとで両者が拡大していくと、次第に消費を通じて形成されるよう人々の欲求が生産の量的・質的拡大を方向づけてゆくようになり、この相互連関の経済的基盤の上に成立しているような社会を一般に消費社会という。その進展とともに、人々の多様な消費欲求に応えるかたちで多様な生産物が生産されるという点では、消費者の視点から消費の拡充が図られているともいえるが、その反面、新たに生産された生産物のもつ付加価値や稀少性が古い生産物の使用価値を奪い取ることによって、生産者の視点から消費欲求が体系的に作り出され、浪費が拡大してゆくという指摘もある。 ボードリヤールによれば、現代高度産業社会は、生産よりも消費、モノの機能性よりもコード化された差異が優位となっている<消費社会>である。消費は、消費者個人の自律的で自発的な享受というモノの「効用」のレウ゛ェルから、差異化されたモノ=記号のシステムへの個々の消費行動の強制的な組み込みという「意味作用」のレウ゛ェルへと転位している。 現代社会がこうした特徴を持っているのは確かである。だが、そうした特徴の意味するところは何なのか、そうした特徴を歓迎すべきなのかといったことも明らかではない。階級、人種、ジェンダーが今でも社会分化の最も重要な源泉であるとか、日常生活の唯美主義傾向に関わっているのは少数派に過ぎないといった議論がなされている。多くの研究者は、消費社会が消費者の権利強化につながるということを疑問視していて、消費社会も実は単に資本主義的価値の拡大を表しているだけで、貧富の差を一層拡大するものだと主張している。
<消費的文化> 【consumptive culture】 消費社会の進展は、一方では生産物の使用価値に応じた人々の欲求を充足し、現実生活での相対的等質化を進めながら、他方では新たな生産物のもつ付加価値や希少性を巡る消費欲求を生み出すために、現実世界とは異なる記号などのレウ゛ェルで人々の社会的差異化を可能にするような文化を形成する。これを消費的文化とよぶことができる。
<商品> 【commodity, Ware】『資本論』マルクス 売りに出されているモノや売買されるモノをいう。モノであっても単なるモノではなく、売ろうとするモノと買おうとするモノの関係を表現している。売買が終われば切れるのだからこの関係は臨時的なものであり、自由な合意に基づく関係でもある。それは非共同体的で非権力的な関係を表現する。商品関係は共同体的あるいは権力的関係を徐々にに弛緩させさらには解体させていく。生産物が商品となる範囲は拡大し、やがて商品経済は支配的になる。資本主義社会のもとで商品生産が支配的生産関係となり、生産物ははじめから商品として生産される。また、生産物でない土地や労働力やサービスまでも商品化される。特に労働力の商品化は、それまで商品経済の外にあった生産といった領域まで商品化し、商品経済は完成して資本主義を確立する。資本主義社会の富は商品の巨大な集積から成るといえるのである。マルクスの資本主義経済の分析では商品が出発点におかれる。商品は外的対象と交換価値という2つの要因の統一として定義され、外的対象は素材として人の欲望を満足させ、交換価値は他の生産物との交換を可能とさせる。この二側面は、労働が具体的有用労働と抽象的人間労働という二重性を持つところから由来し、労働・生産の結果として使用価値と価値(交換価値)がもたらされる。
<商品の物神性> 【commodity fetishism, Warefetisch】『資本論』マルクス 資本主義経済の下ではあらゆる生産物は商品になる。商品は使用価値を持つばかりではなく、交換価値をも持つ。各商品は単独では交換価値を持ちえない。他の商品との交換関係のなかではじめて各商品は一定量の交換価値を持つ。したがって交換価値は商品相互の社会関係の表現であるが、この物的性格を持つ社会関係がの基礎には具体的な成員相互の関係がひかえている。マルクスは「人と人との関係がモノとモノとの関係として現れる」事態を商品の物神的性格とよんだ。また、モノと人との関係の転換を<物象化>という。有用物としての商品をどう分解しても「価値」は折出できない。しかし、モノには、「価値」が備わっている。未開人がモノに「魔神」が宿ると考えたように、資本主義経済人もモノの中に「価値」が内在していると考えている。この価値物神性は商品だけではなく、貨幣の物神性、資本の物神性へと拡大し、資本主義システム全体を貫く。物神崇拝=フェティシズムは社会関係を物的関係と取り違えるイデオロギーであり、このイデオロギーに駆動されて社会関係の物象化のメカニズムが確立する。 資本主義は人々にフェティシズム的思考を刻印しつづける。経済合理性はフェティシズムなしには成り立たない。人もモノも「計算可能性」の視覚からとらえ、精神的行為を貨幣タームで算定しうると臆断するまでに物神性と物象化が深化する。近代の根本特性である「合理化」を批判的に把握する視座は物神性の中にある。
<情報> 【information, Information】 (1)事柄の可能性に関して選択的指定をもたらす「知らせ」のこと。情報とは、コミュニケーションを通じて伝達される、事実や事柄に対する関する「知らせ」のことを指す。またデータや知識から区別して、データより加工されているが、知識ほど体系化されてない中間的な形態として把握される場合もある。 (2) 情報科学では情報をより広義に、自然界に遍在する二種類の「物質・エネルギーの時間的・空間的パターン」が記号・意味関係を形成し、記号・意味間の交換を通じて伝達・処理・貯蔵機能を果たすものをいう。情報の伝達・処理・貯蔵能力は、意味の担い手である記号の性能に規定されている。情報は、これらの機能を果たすことによって機械システム・生命システム・社会システムの物理的過程や行動的過程を制御することができる。この意味での情報は情報理論の創始者シャノンによって考案されたもので、情報量という定量的性格を有する。選択の際、選択肢の数が多いためにどの事象が選ばれているが予測困難になるほど、特定の事象が選択された場合の情報量は増大する。エントロピーが無秩序の尺度として不確実性の度合いを表しているのに対して、エントロピーの反対概念である情報量は、秩序の尺度として選択に基づく不確実性の減少の度合いを表している。このように、二種類の情報は概念的に異なる。ただし生物や人は、(1)の意味での情報を用いて選択的活動を営み、秩序形成を行っているので、二つの情報間には実質的な関連性がある。
<情報環境> 【informational enviroment】 人の生活環境は、モノと情報から成る。その情報から成る部分をいう。一方で社会の進歩は情報の総量を増加させ(情報の環境化)、他方シンボル動物である人はモノに意味を与え、意味を読みとり、モノを記号化する(環境の情報化)から、情報環境は増殖し拡大する。
<人文地理学> 【human geography, Anthopogeographie, géographie humaine】 地理学は、系統地理学と地誌学とからなり、系統地理学は自然地理学と人文地理学とに大別される。人文地理学は、人間集団が地球の表層空間に適応して生活環境を組織し、そこに自然生態系を人間生態系へ、自然景観を文化景観へと変化させる過程と、その地域的差異とを対象として、その地域文化の要因を分析し、地域文化の規則性ないし法則性を究明する。空間的・環境的・システム的科学である。人文地理学の芽生えはギリシア時代の風土論に見られるが、近代的人文地理学の基礎は、リッター、ラッツェル、ラ・ブラッシュによって作られた。 1960年頃からは計量的・行動科学的方法が発達し、土地利用や立地政策、地域行動などへの応用性を高めた。人文地理学は扱う対象により、経済地理学、政治地理学、文化地理学などに細分化される。
<生活環境> 【living enviroment, life enviroment】 生活環境は直接的生活環境と間接的生活環境とに区別される。前者は生活のために利用する交通・通信機関、上下水道、各種教育機関など市民施設・社会装置である。後者は文化、社会、物材、自然など社会状態である。
<生活圏> 【Lebenskreis】鈴木栄太郎 人の生活は周囲の環境と交渉を持ち互いに影響し合って、様々な生活行動が生じるが、こうした環境作用の原則が働き、共通の思考や行動が生まれる空間領域をいう。また今日のように、高度に社会的分業が発達した社会の内部において各経済・生活主体が共通のかかわりあいを生じる地域的範域のうち、1.モノの生産、物資の依存関係を中心として考える生産(経済)圏と、2.消費・日常生活行動を中心に考える生活圏に分けて考えることもある。具体的には通勤・通学圏、購買圏、娯楽圏、公共サーヴィス機関への来入圏などが挙げられるが、一般にこれらは時代とともに広域化してきた。鈴木栄太郎は農民の生活圏の構造をとりおさえることによって、第一社会地区(組)、第二社会地区(部落=自然村)、第三社会地区(行政村)という三種の基本的地域設定を行った。
<生産> 【production, Produktion】マルクス 人が自然に働きかけて、自然から財貨・使用価値を獲得する行為。生物が自然との間で行う物質代謝の、人の特有の形態。生産は具体的には、自然力が自然素材(労働手段)を媒介に自然素材(労働対象)二作用して一定の形態変化を引き起こすように、人が自らの労働力を運動させる(労働する)目的意識的行為である。生産に用いられる自然素材(労働対象と労働手段)が生産手段であり、生産の結果が生産物である。生産において人が相互に取り結ぶ社会的関係である生産関係の発展・交代を引き起こすものは、究極的には、人が自然から生産物を獲得する力能すなわち生産力の発展である。
<生産の偶像と消費の偶像> 【idols of production and idols of consumption】「大衆社会における伝記」ローウェンタール 現代社会に支配的な英雄像は、かつての生産の英雄(政治家を中心にして起業家や専門家)に代わって、消費の英雄(娯楽とスポーツの英雄)がその座を占めるに至っている
<遷移地帯> 【zone in transition, zone of transition】 土地利用が不安定で固定していない地域。例えば、同心円理論では、中央ビジネス地区から工場や会社が侵入し、多くの低所得者層が流入する地域。
<大衆> 【mass, Masse, masse】「群集心理」ル・ボン、マルクス 多義的な概念で、一般的には群衆・公衆と区別され、大多数の人々からなる集合体であり、社会的地位・階級・職業・学歴・財産などの社会的障壁を超えて構成され、異質性をその特質としている。大衆は互いに見知らぬ個人から構成される匿名集団であり、そこでは非人格的関係が支配する。また未分化でルースに組織された集合体であり、明確なリーダーシップを持たず、巨大な非組織集団としての特徴を示す。大衆は空間的に散在しており、メディア市場において相互作用し合い、経験の交換をおこなう集団である。公衆が世論の担い手として存在するのに対して、大衆はマスコミの客衆および大量の商品の消費者として存在する。受動的な受け手として、エリートに操作される大衆が、一転してみ組織のマス運動をおこしてエリートに打撃を与えるという見方もある。イメージ環境が現実環境を圧倒する現代においては、大衆は社会に流通しているイメージを媒介に相互作用をおこない、さまざまな大衆現象を生み出す。 ル・ボンは大衆の登場を予告し、大衆の蕭道成や系神性などの非合理的性格を批判しながら、旧秩序を解体する革新的性格を指摘し、その両義性に注目した。 マルクス主義や近代主義を志向する社会科学では、組織化された労働者を中核とする人民大衆を意味し、その合理的・進歩的な性格を強調する。マルクス主義の用法では、大衆は生産的大衆と規定され、勤労に従事する人々の大多数として積極的に位置づけられる。
<大衆化> 【massification】 近代社会から現代社会への展開過程において生じた社会の構造的変化、つまり大衆の登場、政治の民主化、大衆を操作する心理装置としてのマス・メディアの発達などによって示される社会の形態変化。社会の分化と拡大、大規模組織かが進行するなかで、人はいままで自分を支え庇護してくれた社会的絆を喪失し、自分を帰属させ誰であるかを確かめるアイデンティティの供給源を失う。しかし、大衆化はこうした大衆が社会のあらゆる局面で帰趨を決定する存在になったということでもある。 ある事物が一部のエリートのものから広範な大衆のものになること。例えば、レジャーの大衆化など。
<大衆社会> 【mass society, Massemgessellschaft, société de masse】 大衆化の進展の結果、移動性の増大、社会分化の進行、伝統的基盤や価値体系の崩壊、感情的紐帯の喪失などによって特徴づけられる社会。近代資本主義の展開が、市民社会を存立させている制度や人間観の諸構造を変質させることによって現れてきた社会の様相・状況。大衆社会の最も基本的な捉え方は、社会を「量」的巨大化(=大衆)の表象において認識する点である。生産様式の変化と密接に対応する、社会・集団の形成の巨大化が引き起こす諸効果の認識我不可欠である。大衆社会は、大衆の決定が社会の動向を左右する社会であるが、産業化の進行、権力の集中化、都市化の進展、さらには大量生産手段、交通・通信手段、大衆操作の手段などの発達によって第二次集団の優位、地位と役割の分化、移動性・匿名性・非人間的接触などの傾向が支配的である。 経済の領域における大量生産—大量流通—大量消費の成立は、生産過程における人の機械化、成員組織の巨大化、管理する権力の集中などの問題を生み出す。政治の領域での「基本的民主化」は組織の機械化・管理化と人の画一化・アトム化という矛盾をさらに大きなものとするとともに、政治的無関心やフリー・ライダー層を生み、その一方、独裁カリスマを存立させる危険性をもつ「強制的同質化」を胚胎させる。マス・メディアの発達がコミュニケーションにおける受動性/能動性の形態比率を変化させる。
<大衆消費社会> 【mass consumption society】 大量生産と大量消費のメカニズムが大衆消費よって支えられる社会。現代社会はゆたかな社会社会としての性格を示し、大衆の大きな購買力が大量生産の方向を左右するに至っている。さらに現代の大衆は、価値の多元化が進行する状況のもとでその欲求を多様化し、自由に商品を選択するようになっているため、生産者の視点から、大量生産と大量消費のメカニズムを一方的動かすことをきわめて困難にしている。こうして大量生産のシステムは、多品種少量生産を通して大衆消費をつくり出す必要性が生じている。また商品を心理的に陳腐化させる情報操作も、ますます要求されるようになっている。
<知識> 【knowledge, Wissen, connaissance】 主体的な認識活動の結果として得られた客観的所産の総称。人が実践活動のなかから得た感覚、印象、イメージ、直接的知見などの感性的なものを、理性的な認識活動によって客観化し伝達可能にしたものを知識といい、それを論理化し体系化したものが、理論、学問、科学である。 知識社会化、情報社会化の進む現代社会においては、社会学的には、知識の社会的規定性の面以上に、知識の生産・分配・消費そのもの、その社会的機能の面の研究が活発となっている。共同体の生産物である知識は、一般社会に有用なものとして認められ、先進社会はいろんなチャンネルを通じて、この共同体の保護育成を行っている。
<地理的決定論> 【geographical determinism】 環境決定論とも呼ばれる。極端には人の活動が、主として自然環境の要因により必然的に決定される。という考え方。環境に対する人の主体的働きかけを容認する環境可能論と対立的な概念。
<ディスタンクション> 【distanction】『ディスタンクション』ブルデュー 文化的趣味、ものの見方、振る舞い方によって自己を際立たせ、正統化するといった意識的・無意識的行動であり、これが集団間の差異化にも作用するとき、階層化やヒエラルキー化の一原理となる。
<テレビジョン> 【television】 映像と音声による訴求力と同時性から、W.W.Ⅱ後の世界に急速に普及し途上国の大衆にまで浸透して、政治・経済・社会・文化など生活の各方面に大きな影響を与える。思想の画一化、暴力や性表現などへの批判も大きい。マクルーハン「メディアはメッセージである」など、マスコミ研究の契機になった。
<都市> 【city, Stadt, cité, ville】「生活様式としてのアーバニズム」ワース、『都市』パーク、『都市の類型学』ヴェーバー、『都市社会学原理』鈴木栄太郎、ゾンバルト、『都市の文化』マンフォード ある時代の、ある社会のなかで相対的に人口量の多い、人口密度の高い、住民の大多数が農林業以外の産業で生活の資を得ている集落。ワースの定義によれば「都市は社会的に異質な個人の、相対的に大きい、密度のある、永続的な集落である。」という。この定義によると異質性・人口量・人口密度の3つの変数がアーバニムと相関することになる。ヴェーバーは人口学的都市概念の限界を認識し、都市を住民相互の相識関係を欠いた巨大な一体的定住として、凝集性によって規定しつつ、それに住民の非農業性や市場の存在と衛戊地を加え、古代・中世のヨーロッパ都市の支配形態を比較した。鈴木栄太郎の結節機関説によれば、社会的交流の結節期間が集積した集落が都市である。都市は経済的には、住民の必要とする食料を自ら生産せず他から移入して成り立つ集落である。そこは高度な分業と専門分化によって複雑な社会構造をもち、新しい知識や情報の算出、中枢的管理能力を保つことによって食料移入のための資源を生み出す。このため古代都市、中世都市、近代都市、現代都市とその社会の支配的中心に位置し、革新と社会変動を主導してきた。都市と村落とは共同生活の二つの型を代表するものである。 社会を精神的な創造物として捉える立場からは、都市は自然に対して屹立する不遜な意思の表れと見なされてきた。ゾンバルトは、都市的定住とは「自然に逆らうかたちの居住」であり、「環境の自然的な所与の諸条件を人為的に支配し統御すること」であるとしている。「物質的労働と精神的労働との最大の分業は都市と農村の分離である」とするマルクスの規定は、都市=文明を農村=自然からの疎外態として捉えている。 都市は一次的共同体がその外部に投影する超越性の依坐である。マンフォードやルフェーブルは、都市を生活の発散光線が集まる焦点として、そのハレの場としての生活を強調しているが、そこには都市をここの共同体を越えて得られる意味の磁場の極として捉えていく視点が含まれている。都市は、一次的提供胴体の外部に現れ、それを媒介することで共同体に対する超越性を獲得する二次的構成体である。
<都市回帰現象> 【back-to-the-city】 大都市圏の拡大化にあって、中心都市から郊外周辺部に人々が移動するなかで、中心都市の衰退・空洞化が目立った。中心部の再生<紳士化>(gentrification)をかけて、高学歴・都市的職業・高所得の新中間層型住民を核とした中心都市への呼び戻し策が講じられた。このような新中間層住民のUターン現象。
<都市型社会> 【urbanized society】 全体社会規模の社会の成熟段階を迎えて、人々の生活拠点としての都市のコミュニティーを基層として、全体社会が再構成される状態を指す。都市化途上段階の都市化社会を20世紀型、インダストリアル・シティ、モダンとすれば、都市型社会は21世紀型、ポストインダストリアル・シティ、ポストモダンの諸特徴を示す。
<都市景観> 【urban landscape, townacape】 都市において、住民や来訪者の身体感覚と人工的環境の相互作用が織りなしていく視覚的表象。都市景観は、単に目に見える建物の集合ではない。この概念は、人々の場所に対する感情を含んでおり、同時にそうした景観自体、社会的にデザインされたものであるという視点も内包している。つまり都市景観は、都市を一方の認識主体の主観にも、他方の環境の客観的秩序にも還元できないものとして捉える可能性を示しており、こうした視点からの研究が、近年の現象学的地理学やポストモダン地理学のなかで姿を現しつつある。
<都市社会構造> 【ueban social structure】 都市という部分社会の中で形成される社会構造。財・サーヴィスの生産、消費、流通の様式を基軸に、政治・文化・象徴などの下部構造をもつ。これらは市民や諸集団・組織の相互行為を通じて、絶えず再生産されたまた変容を遂げている。保有する権力や経済的資源の多寡による垂直的分化とライフスタイル、ジェンダー、エスニシティーなどにもとづく水平的分化が、つねに空間構造とも連関しあいながら、階層分極化や住み分けなど都市独特の構造的分化のパターンをつくり上げている。
<都市的生活様式> 【urban way of life】ワース ワースは、都市が<第一次的関係>の欠如、弱い社会統制、進んだ社会的分業、マス・メディアの重要性、他者を手段的に使う傾向、といった特徴を持っていると考えた。それらは3つの基本的要因によってもたらされる。人口の量、密度、そして異質性である。都市環境がもつ基本的な特徴が、あらゆる範囲の都市的社会行動を決定する点において、ワースのこの理論は<都市生態学>の原理に沿っている。それに対して、経験的研究が示しすように都市的生活様式は複数あること、都市的生活のあらゆる側面を3つの要因に由来すると見なすのは無理があること、などの批判がある。 ジンメルは匿名性を都市的生活様式の基本的性質と考えている。
<都市文化> 【urban culture】 都市に特徴的な生活様式をいうが、都市文明を含めることもある。都市の伝統や制度に支えられ、進取的で合理的である。今日では、特に生活の社会化の進展によって可能になった機能的な個人中心の生活様式が、都市化社会をつくり出している。そのような状況のなかで、地域社会において、都市か社会には飲み込まれないような独自の地域文化を再評価し、創出する動きもある。
<都市類型論> 【typology of cities】『都市の類型学』ヴェーバー、『前産業型都市』ショーバーグ、レッドフィールド 歴史上のあらゆる都市に共通の一般的構造を求めるのではなく、いくつかの類型にわけ、相互の対比を通して都市・都市化に対する立体的な理論を構築しようとする比較社会学的な試み。ヴェーバーは生産者都市と消費者都市、門閥都市と平民都市とを分類した。ショーバーグは、都邑連続態論に対する批判として<前産業型都市論>を提起した。だが、都市、テクノロジー、権力、価値の4つの変数により産業型都市と前産業型都市を区別する彼のモデルは、都市化の歴史的なダイナミズムを欠落させる。レッドフィールドは、<同形的文化変容の都市>と<異系的文化変容の都市>を分類した。
<美意識> 【aesthetic consciosness, conscience esthétique, ästhetisches Bewußtsein】マクルーハン 美意識という言葉は死語になった。美はむしろ、全身の体性感覚のもとでつかまえられるものであり、メディアによって感じとられる電子の体験となっている。マクルーハンのメディア論に出発した現在の美学は、電子の森から生み出される形象とイメージを、スラーや印象は印象派の点描画と結びつけながら、イメージの領域を拡大していくからである。美は電子メディアの触覚やバイブをなしに考えることはできない。しかもメディアがつねに社会の観客と消費する物たちに向けてメッセージを発信するならば、そこでのイメージの読解は社会の欲望の読解であり、メディアの戦略とレトリックの解読である。
<表象> 【presentation, representation, Vorstellung】 感覚をとおして経験された外的対象である事物の形態・特徴・属性が記憶され、それらがある程度体系的に統合されたもの。事物が消滅したり、不在であっても保持される。経験や記憶は個的なものであり、表象の段階では十分に論理的・客観的に定義されないから、心的映像(イメージ)に近い。事物の存在が持続し経験が反復されると、表象は事物の本質的性格に接近するから、感覚よりも客観的・普遍的である。観念と同義的に用いられる場合もあるが、観念と感覚の中間概念であり、概念とは区別される。対象を前にした場合<近く表象>、過去の知覚対象が想起された場合<記憶表象>、それらを主観の側で組み合わせる場合<想像表象>などが区別される。
<風土> 【climate, Klima】 ある地域の気候や地形や景観などの総体をさす。ただし、人の手の加わっていない自然景観をさすのではなく、人の生活の歴史を含んだ自然の環境を意味する。ヘルダーは、各民族の生活様式や考え方の個性はその風土の関連性をもつと見なした。和辻哲郎は、人間存在を各地域の風土的特性から説明している。
<方法論的個人主義> 【methodological indivisualism】 方法論的集団主義に対比されるもので、社会あるいは夜会諸関係の分析単位を個人に求め、個人の心理や行動および個人間の相互作用などから社会あるいは社会諸関係を説明していこうとする方法的志向。この場合は、一般に、社会は諸個人の相互作用のネットワークとして把握される。
<方法論的個人主義/方法論的社会主義> 【methodological individualism / methodological socialism】 一般的にいえば、唯名論と実在論、原子論と全体論などという科学方法論上の対立を背景にして、社会学における「個人」と「社会」の連環について、方法論的「個人」主義は、「個人」優位の社会理論として、例えばタルドやジンメル、典型的にはヴェーバーの方法論的立場を示し、他方、方法論的「社会」主義は「社会」優位の社会理論として、例えばデュルケームの方法論的立場を示す。しかし今日では「個人」と「社会」の形式的理解は有意味ではない。方法論的社会主義とは18c後半から19cの70年代にかけての社会科学の方法意識である。アダム・スミスからベンサムへの功利主義、サン=シモンとコントの産業主義、ヘーゲルからマルクスの歴史主義であり、それぞれの視座から「市民社会」から「資本主義社会」への転換期における「社会」の分析を提示した。方法論的個人主義とは、19cの70年代から20cの60年代にかけての社会科学の方法意識である。アメリカのプラグマティズム、ドイツの生の哲学、フランスの実存主義であり、いずれも産業資本段階から独立資本段階・帝国主義段階へと移行する「資本主義社会」のなかでの「関係」の肥大と自立化に対する「個人」の再定位の方法意識を示している。
<方法論的集団主義> 【methidological collectivism】 社会あるいは社会諸関係の分析単位を個人ではなく、集団もしくはより下位の社会関係に求める方法的志向。社会科学の成立のためには、多かれ少なかれ社会を実在として捉える見方が必要であったが、この方法が極端化されると、個人の役割や自立性を極小化する考え方に陥る。
<ホット・メディア/クール・メディア> 【hot media and cool media】『メディア論』マクルーハン メディアの内容よりもメディアの形式が人の感覚や思考様式、社会に影響すると論じたマクルーハンの用語。情報の密度の高いメディアをホット・メディア、密度の低いメディアをクール・メディアと呼ぶ。ホット・メディアは多くが与えられているため、受け手が埋め合わせていく部分が少ない、参加度の低いメディアであり、クール・メディアは受け手の参加の度合いが高いメディアである。ラジオ・映画・写真はホット・メディアであり、電話・テレビ・漫画はクール・メディアである。エレクトロニクス時代はクール・メディアの時代であるとされる。
<ポトラッチ> 【potlach】 北アメリカの北西海岸インディアンにおける贈与交換の儀礼。「饗宴の交換」ともいわれ、膨大な量の食物の消費、貴重な財の贈与や、ときにはそれらの破壊を行う族長間の名誉を賭けた競覇的な饗宴の応酬のこと。それは社会的地位や名誉を示すため競争的に行われる。再生産過程に接続しない財の大規模・集中的な消尽一般の名称にも転用される。ポトラッチは、近代社会の経済観念とはかけ離れた存在であるためしばしば神秘化されてきたが、社会学的には、社会内の財のフロー/ストックの調整を司る、近代社会の市場機構と機能的に等価な制度と考えられる。バタイユは、ポトラッチに関する考察にもとづいて、消費が生産よりも優先されねばならないとする、「異端的」な経済学思想を提示した。
<マス・カルチャー> (大衆文化) 【mass culture, culture de masse】 大衆社会に対応する文化の形態。少数のエリートに専有されていた特定の文化とその基層にある土着的な民俗文化とのあいだに現れ、また、複製技術と結合していることから中間文化やコピー文化という捉え方もある。大衆社会では、生活水準や文化享受の能力が向上・平準化し、マス・メディアの発達などから、文化の享受範囲が拡大され、これがマス・カルチャーの成立基盤となった。マス・カルチャーは多数の人々をマッス「大きな塊」として結合させる技術と手段=マス・メディアなしには成立できない。印刷技術はまさにその最初のものであり、ラジオ、映画、テレビなどの電子技術はその統合規模をさらに拡大する。マス・カルチャーには、かつて上流階級と庶民とのあいだに存在した文化的な不平等を撤廃する側面がある。その一方で、国家、民族、言語、地域などの文化的差異を消去し、均一化してしまう側面がある。また、大衆文化は文化の商品化をもたらし、営利と結びつき、大衆の支持を得るため低俗化・画一化する傾向がある。したがって、消費文化・画一文化という否定的側面を見逃すことができない。享受範囲の拡大や文化の多様化、全体的レウ゛ェル・アップという面から積極的な評価をすることもできる。情報かの昂進とともに「多様性」や「差異」が再び尊重されるようになると、「マス・カルチャー」は否定的な意味を持ってくる。その意味で、80年代後半は脱マス・カルチャーの時代だといえる。
<マス・メディア> 【mass media】 もともとマス・メディアはそれに接する人々の個人的・集団的な差異を均質化することによって成り立ったわけだが、電子的なメディア・テクノロジーの急速な発展はそうした均質化の規模と度合いを極端なものにした。文化的な差異は均質化し、リアリティのある「現実」と考えられてきた自然環境や身体的出来事に変わってすべての「現実感」の基準となる。メディアは集合的無意識となり、個々人の意識の基底をなし、それ自身を内部から脱均質化しなければならない。
<メディア> 【media】 「中間」「媒介」などを意味するラテン語mediumの複数形が語源。伝達を「媒介」するもののこと。その「媒介」の仕方には伝達技術の発達とともに歴史的変遷がある。従来の伝達技術は同じメッセージをできるだけ多くの人々に伝えることを目指してきた。そのため、メディアはメッセージを受け手に忠実に伝える透明な媒体である、ものとみなされてきた。文字メディアはその点で不十分なメディアであるということになる。言葉は筆記されることによって抽象化を免れないからである。印刷術以後のメディアテクノロジーは透明な媒体としてのメディアを追求しながら電子メディアに到達した。だが、その一方送り手のメッセージがそのまま受け手に伝わらないという逆説がおきる。テレビは、舞台とは違って演技力のないものを「タレント」にすることができる。レコードは、生演奏を忠実に再現するためのメディアだったが、今日では、録音以前には一度も存在しなかった音を合成したり新たに作り出したりするためのメディアになっている。現在では「メディアがメッセージ」を作るのであり、送り手、媒介、受け手という発想そのものを無意味にしているのである。メディアはコミュニケーションそのものを成り立たせる「場」であって、単なる通路ではない。メディアはその意味で送り手と受け手をともに決定する力を持ちうるわけであり、メディアをどのように機能させるかは、送り手がどのようなメッセージをもつかということよりも重要になる。<メディア・ポリシー><メディア・エコロジー><情報環境論>といった問題が重要性を帯びてくるのもこのためである。
<物の体系> 【système de objets】『物の体系』ボードリヤール 現代社会に固有の誇示的消費は、商品=モノの非機能的で記号的な秩序を前提としている。近代産業社会における人とモノとの関係が、モノの機能=有用性に媒介されていたのに対して、今日の消費社会ではモノは、欲求対象としての物財的な生産物ではなく、消費という体系的な記号操作活動のなかに組み込まれる「記号」となっている。記号としてのモノは相互に、秘本質的で周辺的な差異のシステムを構成し、消費者の社会的地位をコード化し、彼に「個性」を賦課する。モノの記号性はモノについてのコノテーション的な言説としての広告や生産よりも消費を先行させるクレジットによって促進させられる。モノ=記号の意味作用にもとづく新たな編成とそこへの人の参加とが消費社会の社会秩序であるとされる。これは従来の生産中心主義的視座の超克をめざす発想でもある。
<豊かな社会> 【affluent society】『ゆたかな社会』ガルブレイス ガルブレイスによって問題意識的に用いられた用語。欠乏と戦ってきたかつての社会に対して、生産力が向上したがゆえに、民間部門のゆたかさと公共部門の貧しさのアンバランスという、従来とは異質の問題性をもつようになった社会。この<社会的バランス>の回復が大きな社会的課題となる。この社会では、貧困が消滅するわけではないが、むしろ「島」として点在するようになり、そこに住む人々が「島の貧困」を強いられるので、従来とは異なった対策が要求されるようになる。ゆたかな社会の基本問題はモノよりも人に移り、「人間への投資」としての教育が重視されなければならない。戦後新本主義の相対的安定期をよく反映している。
<リビドー> 【Libido】 フロイトが構築した人の本性に関する概念で、人間の成長・発展を可能にする心的エネルギー源のこと。このエネルギー源には性的<エロス>と破壊的エネルギー<タナトス>がともに含まれ、厳密には前者をリビドー、後者をモルティドーという。エロスは生きている物質をさらに大きな総合体にまとめようとするものである。精神分析の理論においては、人間の行動はすべてこのエロスとタナトスの相互対立的、または結合的作用に他ならないと考えられている。性欲堂は精神と身体の境界に位置するものであり、リビドーはその精神面をあらわしている。
<労働価値説> 【labor theory of value, Arbeitswertlehre, Arbeitswerttheorie】『資本論』マルクス 広い意味では、人の労働が価値を生むのであり、したがって人の労働が価値を決める、というアダム・スミス、リカード以来の経済思想。これはマルクス『資本論』によって執拗に分析され、商品の価値はその生産に必要な社会的労働時間によって決定される、と定式化された。マルクスにとって、経済の目的はすべて<使用価値>、すなわち有用な<モノ>(objects)を創造することである。また、自然に働きかける主体的な営みとしての労働が軸として考えられている。 しかし、多くの経済、特に資本主義的な経済では、人々は自分自身の使用のために直接モノを生産するのではなく、他の商品との交換のために生産する。すべての商品は、労働によって生産され、究極的には、それらの生産に費やされた労働時間が<交換価値>を規定するのである。しかし、現実には商品はそれらの価値で交換されているわけではない。というのも、それらの価格は、需要と供給などの諸要素全体によって規定されているからである。
<理解> 【understanding, Verstehen】『理解社会学のカテゴリー』ヴェーバー、『社会的世界の意味構成』シュッツ ディルタイの解釈学に固有なカテゴリーのひとつ。言語によって伝えられる意味内容や、社会=歴史的生の諸形式を解釈によって自分のものにすることをいう。理解には感情移入・模写・追体験などの形式がある。 ヴェーバーは<理解社会学>において「行為の主観的意味づけ」を重視して、動機の理解の方法を提唱した。シュッツは、行為者が私自身である場合(自己理解)と、他者である場合(他者理解)とではその理解の仕方は異なるとし、理解社会学の現象学的意味づけに腐心した。