5.1.クラブでのダンス
5.1.1.テクノで“ダンス”する
では、そういったクラブという特殊空間でクラバーたちは具体的にどのようにその“音楽”を受容しているのだろうか。
クラブのフロアで行われる“ダンス”は、ほとんどの人は DJ の方を向き、曲のリズムに合わせて、自由に体を動かし「ステップ」を踏み、腕を動かす、というものである。(図5-1)その“ダンス”はディスコにおけるダンスや社交ダンスを含めた一般的な「ダンス」とは様子が異なる。「ステップらしいステップや特別な動きのないダンススタイルでは、手に手を取って一緒に踊ることもできない。」[サベージ、1999:9]とジョン・サベージは表現している。また、鶴見済は、クラブでの“ダンス”についてこう言っている。「そもそもこのダンスには名前がない。踊りに関する決まりも一切ない。稀な例だ。ただ飛び跳ねている人の横で、別の人が体をユラユラ横に揺すっていたりする。10年たってもやはり名前はつかないようだ。」[鶴見、1998:111]としている。
椹木野衣は、そういったクラブでの“音楽”と“ダンス”について以下のように述べている。「テクノ・ミュージックをダンス・ミュージックと呼ぶにはどうしても抵抗があります。(中略)そこで行われていることは「ダンス」なのかどうか、根本的な疑問があります。それは「ダンス」というよりも、ダンス以前の、ヒューマンであること以前の、分子状のヴァイブレーションに対して、いまある身体を追いつかせよう、接点を見出そうという、純粋な快楽追求であるように思うのです。そこにはアイロニーはありません。」[久保田 監修、2001:80]
イデオロギーの音楽であるテクノのクラブでは、身体を用いて“ダンス”することによって、クラバーたちはフロアを盛り上げることをお互いに真摯に求めあう。だが、一人で“音楽”やサウンド、そして自己の内面に没入して踊ることも許されるし、集団で踊っていても大音響と激しい“ダンス”によって内面に没入する感覚を味わうこともある。湯元玲子は、そういった感覚を「クラブには、まず踊る身体があり、他者との連帯があり、一方で自由な孤独がある。」[湯元、2005:15]と表現している。
5.1.2.身体技法としての「ダンス」
クラブでダンスをしていると、はじめは身体がビートやグルーヴについていけないが、次第にサウンドやその場の雰囲気、周りのクラバーのダンスに身体がシンクロしていきうまくダンスをすることができるようになる、という経験を何度もしている。だが、そのダンスには明確な規則や名称は無い。クラバーにとって“ダンス”の方法は誰から教わったわけでもないが、何度もクラブで“ダンス”する中でいつの間にか体得してきたものである。
“ダンス”は他者との間接的な関係やフロアの雰囲気の中で盛り上がってくる。隣に適度に激しく“ダンス”している人がいると自分も気持よく踊ることができる。逆に、フロアで立ったまま踊ってない人や踊りがビートやグルーヴに合ってない人がいると気分が盛り上がらない、一方で、変わったノリで激しすぎる“ダンス”や奇妙な身体の動かし方をする人がいると場がシラケる、といったことも起こる。クラバーたちによってフロアで伝承されていく“ダンス”には一定の作法がある。鶴見が言うように、一切決まりがないわけではない。
そういった経験は、多くのクラバーに共通するものだと思われる。湯山玲子は「4時間前に初めてこの場所に足を踏み入れたときには、お腹の皮がふるえるほどの大音量に呆然と立ちすくんでいたにもかかわらず、ここに来て、発射される四つ打ちの重低音は、すでに心臓の鼓動のように、自分がとりたてて意識しないものになっている。気がつくと私は仲間とも離れ、ダンスフロアの一角に自分のテリトリーを見つけて踊り続けていた。」[湯山、2005:7]と述べている。また、湯山は、クラブのフロアでは不思議なコミュニケーションがあり、ノリのいい人の近くで“ダンス”することが重要で、「この場合のノリというのは、音楽に没入してそれを全身で聴いているような動きのことで、こういう人と隣り合わせて踊っていると、なぜだか呼吸や意識のツボが合ってくる。(中略)こういう強力な二人の磁場ができると、その周りには吸い寄せられるように人が集まってくる。いいパーティーとは、フロア全体がそういうグルーヴに包まれることなのだ。」[同:18]と述べている。
マルセル・モースは、「人間がそれぞれの社会で伝統的な態様でその身体を用いる仕方」を「身体技法」だとしている。[モース、1973:119]食事の方法や歩き方など地域や民族によって差異の見られる身体の動作は一定の「型」を持っていて、「社会的な特質を形成していて、たんに純粋で個人的で、ほとんど完全に心理的な、なんらかの配置や機構の所産ではない」。[同:126-127]身体技法は、例えば、子供が親のものを「威光模倣」することによって伝達され、その社会の伝統や習慣となっていく。[同:128・138-139]
クラブでの“ダンス”の動作や作法は、シカゴ・ハウスのパーティーあるいはイギリスにおけるアシッド・ハウスのレイウ゛・イウ゛ェントの中で自然発生的に誕生し、誰かが明示的に伝達したものではなく、クラブのフロアで模倣されて伝達し維持されてきたものである。“ダンス”はクラブ・カルチャーの中で形成されてきた身体技法であるといえる。
5.1.3.ノル身体
そういった身体技法を用いてクラバーたちはいわゆるノリの状態に入っていくのだが、それはどう理解できるのだろうか?
音楽社会学者の小川博司は、音楽において「ノリがいい」ということは、「個体を共有したなにものかを体験」することで、「音楽のコミュニケーションの参加者が内的な時間の流れを共有していると感じている状態」だと述べている。[小川:1988、79-80]
クラバーたちは、クラブという文化装置を用いてノルことで、日常生活世界ではない多元的現実のひとつである「音楽の世界」に没入していくことになる。「音楽の世界」は、「日常生活世界」とは異なる現実を構成している。クラバーたちは、「音楽の世界」にいるとき、その間は「日常生活世界」とは異なる価値や時間に身体を置いている。
また、小川は、音楽のノリはロジェ・カイヨワの遊びの4分類では、まず「模擬」に関連するものだとしている。[同:82]クラブでは、暗い空間の中で照明やサウンドによって雰囲気がつくられ、ダンスの身体技法を真似ることによって、仮面をつけ変身したような状態、なにかが憑衣した状態に入ることで、クラバーは “音楽”やサウンド、そしてそれらを含めた様々な要素の意味作用によって現出するテクノのエクリチュール、パーティーのエクリチュールの集合的な体験を共有する。
だが、ダンスフロアの中でも、目に見えてうまく踊れていないノリのクラバーがいる。彼らにはどういった要素が欠如しているのだろうか?
小川はノリのために必要な条件は、①「素養」の共有と②緊張だとしている。音楽一般について言えば、①は音楽の意味を最低限理解できる知識を身につけていることであり、②は祭りのようにパフォーマンスの時間・空間を限定することと、ジャズのアドリブのようにパフォーマンス内部での飽きがこない工夫をすることによって維持される。また、ポップスやロックのコンサートにおけるその条件とは①聴衆の曲目の「予習」と②その予習した曲目がどのように演奏されるかという期待、それにミュージシャンが醸し出すアウラとしている。[同:82-87]
テクノの場合、①については、DJがプレイするレコードは匿名性が高く、曲名が特定できないことが多く、出演するDJの作品を聴き込んでいるかはほとんど問題にならない。テクノにおける「素養」とは、まずクラブに何度も通いそこがどういった場所でどういった立ち振る舞いをすればいいか理解していることであり、「ダンス」の身体技法の習得が大きな位置を占める。「素養」の音楽的な面としては、まずアンセムの知識の共有が挙げられる。アンセム・ソングの価値を理解していなければ、フロアでの“ダンス”やクラバーのテンションの昇降についていけないかもしれない。それに加えて、例えば「カール・コックスは、ハード・テクノ系のDJだけど、黒人らしいグルーヴが感じられるプレイをする。」といったレベルの大まかな音楽の知識、DJがつくりだすグルーヴの他者との共有がテクノの素養となる。②については、DJの側では、緊張を維持するためにテンションをキープしつつその内に弛緩をつくり、フロアを盛り上げる飽きさせないプレイを構成することがあげられる。クラバーの側では、その日DJがどのようなプレイをするか、そのDJが予想されるとおりのアンセムを用いるかという期待、ということもその一つとして考えられる。だが、それ以上に、自ら激しい“ダンス”をして身体を覚醒させ音楽とサウンドに没入していく、真摯な態度や充分な体調や体力が「緊張」をもたらすための条件となる。
DJのプレイやクラブの雰囲気、サウンド・システム、照明などが自らの心身に適合して、ノリの条件が揃っていた場合、その日のパーティーは感動するほど素晴らしいものになる。
5.1.4.イリンクスを求める身体
クラブのフロアでノリの状態にある身体は、ある種の能動的だといえる「ミミクリー=模擬」というだけでは表現できない感覚を経験する。それはどのように考えることができるだろうか?
マーシャル・マクルーハンは、高精細度で硬直的で単一感覚を拡張するメディアを「ホット」メディアだとし、一方で流動的で全身感覚を拡張するメディアを「クール」なメディアだとした。[小川:1988、7-10]また、そのクールなメディアに全身感覚が没入する状態とは、単純な興奮状態ではなく、全身が研ぎすまされ、意識が覚醒された状態である。[同:14]
元々、「ホット」とはスウィング・ジャズのビッグ・バンドによる分厚いサウンドを表現するスラングである。一方で、ビバップやハード・バップのグルーヴィーなドラミングやめくるめくアドリウ゛・ソロにノル感覚を「クール」といい、そういった感覚を評価してマクルーハンは「クール」を用いた。
一見するとテクノは、分厚いサウンドが迫ってくるホットな音楽であると思われるかもしれない。しかし、楽音としての情報は少なく、気持よくダンスするにはサウンドがノイジーなことが必要で「音的にもラフな感じで、わざと全部ひずませた感じにしてみたりね。」[FLR/EASY FILTERSライナー・ノーツ]というように、テクノは低精細度な音楽である。また、クラブという場においては、楽曲はDJのプレイによって刻一刻変化する流動的なものとなる。それがクラブのサウンド・システムによって大音量で身体に響いて、全身感覚が覚醒される。テクノは全身感覚を拡張する非常にクールな音楽である。
小川博司は、ノリはカイヨワの眩暈(イリンクス)の状態にも関連する、としている。
全身の感覚がノッたクールな状態において、心身は我を忘れた覚醒された状態にある。一方で、アルフレット・シュッツのいう「覚醒」とは「日常生活世界」でオフィスワークを行うようなホットに「サメ」ている状態である。その二つの覚醒に対するものとして「酔い」=イリンクスの状態がある。[小川:1988、89-90]
現代社会における「日常生活世界」では、「サメ・ホット」の状態であることが要求される。しかし、現代は日常のなかに音楽が偏在する音楽化社会であり、日常生活世界の中に「ノリ・クール」が入り込んでいる。また、管理社会化の中で複数の社会的役割を演じることや、マニュアル化された感情労働を行うためには、「サメ」た日常における「ノリ・クール」=ミミクリーが要求される。「酔い」は非日常の空間に隔離され、人々は「酔い」=イリンクスを求めるようになる。[同:91-94]
クラバーたちは、パーティーの興奮状態がピークに達するまでは“ダンス”という身体技法=ミミクリーによって能動的にノッていく。しかし、ノッた身体は、パーティーの雰囲気がピークに達した時には、勝手に体が動くような酩酊状態になりイリンクスの状態を経験する。こういったパーティーの状況のなかでは、身体が疲労していてもトイレに行きたくても喉が渇いていても、その高揚から離れるのが惜しくて、身体は“ダンス”を止めずフロアを離れることができない。
また、身体がこういった状態の中にあると、時間はあっという間に過ぎてしまうように感じたり、楽しいパーティーだったのにほとんど記憶がなかったりする。音楽のコミュニケーションの参加者が内的な時間の流れを共有することで、社会によって構築された日常の社会的時間の時間意識とは異なる、非日常に隔離されたイリンクスの時間意識を体験するからではないだろうか。
5.1.5.至高性に至る身体
さらに、テクノのパーティーでは、イリンクスの感覚を越えた、バタイユのいう「至高性」の感覚を経験することがときにある。
ジョルジュ・バタイユは、生命体が対象と結ぶ関係を「連続性」と「不連続性」に区別した。連続性とは、主体と対象とを区別する境界が存在せず、互いが浸透し合っている状態のことをいう。動物は、環境や他の動物などを客体として自己と区別していなく、連続的な関係にある。こうした状態にある身体を「浸透する身体」といい、人間は身体の境界を消失し、世界に溶解することでそれを内奥から知覚できる「至高性」に至る。[バタイユ、1985:19-31]
また、不連続性とは、主体と客体が分節された状態のことである。そういった身体は道具的な身体となり、あらゆる対象を客体とみなし、それを有用性の面に投影しなければならない。身体を有用性のみに用いることは、人間の生命エネルギーを摩耗させることになり、大きな生命の流れから身体はとりのこなれるようになる。[同:32-40、51-53]
その生命エネルギーを枯渇から回復するものが「供儀」である。供儀では、執行者によって獲物や収穫物が神に捧げられ、破壊されることで有用性を失い、参加者はそれと一体化することで、身体が溶解され至高性に至ることができる。これは、日常生活において反復される身体活動のパターンを解くということでもある。また、供儀は生命エネルギーの解放という社会の存立を脅かす畏怖すべき力を持ち、多くの社会において祝祭として制度化されている。人々はこういった祝祭への参加によって生きる意味やアイデンティティを得てきた。[バタイユ、1985:54-73・井上・亀山編、1999:96-98]
かつてイギリスの共同体の祝祭で行われていたサッカーの原始的な形態であるモブ・フットボールあるいはストリート・フットボールでは、二つの村の成人男子が参加し、村全体をフィールドとして対戦し、勝利=ゴールを巡って激しく身体をぶつけあっていた。その“ゲーム”には、禁止条項がほとんどなくゴールの奪取をめぐって、村人たちは相手の村のチームに対して蹴ったり殴ったりというあらゆる暴力を行使していた。その暴力性こそが祝祭性を特徴づける破壊であった。[井上・亀山編、1999:102]
現代では、コンサートの鑑賞やサッカーの観戦などかなり受動的な祝祭への参加はあったとしても、モブ・フットボールのような自らの身体が溶解するような直接的な祝祭あるいは供儀への参加の機会はほとんどない。だが、クラブでのダンスでは自らが直接的に能動的にその場の供儀ともいうべきものに参加することができ、また、日常生活の身体活動のパターンから身体を解きほぐすことができる。
そして、大規模なカウントダウン・パーティーや大バコでの著名なDJのパーティーやカウントダウン・パーティーでは、さらに強い至高性の感覚を得ることができる。そういったパーティーではほとんど身動きのできないような超満員でスモークが大量に焚かれ視界の悪いフロアで、クラバーたちは激しくダンスしようとしたり、さらにフロアを盛り上げようと様々なボディ・ランゲージを示したりする。水を撒いたり、面識のない人と抱き合ったりということが許されることもある。暴力的なまでのサウンドや満員の中での他者との激しいダンスは、サウンドや他者たちの身体と一体となった身体が溶解するような至高性の感覚を与えてくれる。(図5-2)しかし、至高性に至るようなパーティーに出会うことは多くはない。
5.2.若者の身体と身体性の回復
5.2.1.希薄な身体性
では、なぜクラバーたちはクラブに集まり心身を過剰に消耗される“ダンス”を行うのだろうか?なぜクラバーたちは“ダンス”によるイリンクスと至高性を求めるのだろうか?現在の日本の若者にとって、クラブとそこにおける“ダンス”はどのような意味を持つのだろうか?若者の身体性やコミュニケーションの問題として論じてみたい。
現在の若者は、一般に身体性が希薄だという。香山リカによると、あやしげなサプリメントを気軽に飲んだり、ファッション感覚でタトゥーを入れたりする若者もいる。また、「自分のからだなのにロボットを操っているみたい」と訴える若者も多くいて、それは自分の身体とずっとつきあっていくという意識や感覚の欠如によるものだという。[香山、2002:76-79]
また、鷲田清一によるとピアッシングやタトゥー、過度なエクササイズ、過食症と拒食症などの過剰な身体への意識は、身体が健康や清潔、衛生、強壮、快感といった観念に取り憑かれていることから起こるという。ゆるみを失い観念でがちがちになった身体は、固有の判断力や想像力を失っている。[鷲田清一、1998:22-36]また、食事の作法や話し方のスタイルを含めて、さまざまな身体の使用は社会的なものだが、身体をめぐる強迫観念やパニック状態は、社会性の消失から来ているようだ、という。[同:54]
そうした観念を持つ余地をもち、身体性が欠如することになった原因のひとつが、私たちの身体が「働かない身体」であるからではないだろうか?鷲田小弥太によると、高度消費社会は、生産と労働の効率化の故に、それらが社会と個人の生き方の中心的意味を占めなくなった社会であり、効率的な「働く身体」をもつことによって、「働かない身体」をもつことを強制された社会である。[鷲田小彌太、2005:235]
そして、現代では仕事の残りの時間である「余暇」(レジャー)の増加は、独自の意味と機能を持つものになり、そこから労苦があってこそ意味を持つ余暇の快楽を得られず、「働かない身体」をもつことはとても苦しいものとなる。[同:236]働かない身体の価値をポジティブに捉えて、例えば、「大学時代は勉強しないで遊びます。」と言ったり、フットサルのチームを掛け持ちするなど過酷なスポーツで余暇を過ごす若者がいる。その一方で、働かない身体を持つことの苦しさはニートやひきこもりの問題の原因のひとつであると考えられる。
5.2.2.コミュニケーションの消極性
一方で、若者において自身の身体性だけではなく、他者との関係やコミュニケーションのあり方も希薄になっている。
土井隆義によると、現在の子どもや若者の友達関係には、慎重に相手を傷つけないために、関係性そのものに対して払われる繊細な配慮が読みとれるという。一見、屈託もなく友達づき合いをしているが、その裏では、大変な駆け引きと、それが顕在化しないような高度な配慮を行っている。彼らは、親密な相手だからこそ関係性を維持するために、「素の自分の表出」ではなく、「装った自分の表現」を優先させる。[土井、2004:5-7]
そういったコミュニケーションのねじれや不可能を起こしてしまう「やさしさ」は、仲間内や「やさしそうな人たち」との協調を目指して、相手の気持を汲み取るのではなく相手の気持に立ち入らない「やさしさ」である。[大平、1995:68-69]
その一方で、友人などごく親しい人間関係の中でそういった「やさしさ」を使い果たすことで、公共空間では、意味ある人間としての他者が認識されていない。彼らにとっては、見知らぬ他者は風景にしか見えていない。[土井、2004:12-19]
5.2.3.コミュニケーション・ツールとしての音楽
若者にとっての音楽は、そういった関係性を維持するためのツールとなっている傾向がある。
80年代には、音楽をはじめとするサブ・カルチャーのジャンルがコミュニケーション・スキルのあり方によって分化するようになったという。60年代には、ロックを聴くことは若者の証明であった。70年代には、フォーク/ニュー・ミュージック/ロック/ポップスなどにジャンルは、ニュー・ミュージックを聴くのはフォークへの反発であるというような、互いを意識する差異化の関係があった。だが、80年代には、どの音楽を聞くかという理由が不透明になり、対人関係が不得意な人たちがロックを聴き、対人関係の得意な人たちがポップスを聴くという現象が起こった。[宮台、1998:128-129]
例えば、1987年に行われたマイケル・ジャクソンのコンサートでは半数以上のファンが音楽にノラなかったという。それは、観客のほとんどが当時大ヒットしたミュージック・ヴィデオの『スリラー』のマイケルを直に見て、話の種にするためにやって来たからである。[小川、1988:88-89]
最近の例としては、GRAYやB’zの購買層のほとんどは、話題のものなら何でも買う人で、メディアの報道によって購買意欲を動機づけられ、話題を求めて一瞬にして殺到しCDを購入する、というものが挙げられる。それらはムーヴメントのなかの記号であり、曲を聴くというよりは、記号の共有に意義がある。そして、メディアでの露出と知人との共有以外に、それらは商品としての背景を持たない。[松原、2001:108-109]
5.2.4.身体性の回復
クラブという空間では、そういった若者の問題が、一応、以下のように解決される。
階段やラウンジで、踊り疲れたりアルコールに酔ったり深夜で眠くなったりして、座り込んでいる人が必ずいるほど、ダンスは心身を消耗させる。クラブでダンスすることは「働かない身体」を持てることによって可能になる。
音楽やサウンドの体験を目的として、クラバーたちは意味ある他者となっていて、過剰な「やさしさ」の必要ない、ゆるやかだが積極的なコミュニケーションが成立する。公共空間ではありえない、初対面の人とフロアで盛り上がったり、ラウンジで話しかけたり、タイムテーブル(DJの出演予定表)の内容を訊いたり、タバコを貰ったり、時計を見せてもらったり、といったことが可能になり、また、それらが拒絶されることはほとんどない。
さらに、クラブでの“ダンス”とイリンクスや至高性の体験は、そういった単なるリフレッシュメントとしてあるだけではなく、普遍的な意味での身体性を回復させてくれる機能を持っていると考えられる
小浜逸郎は、身体はただの「対象」でも「精神そのもの」でもない序列・秩序である5つの意味の体系を持っている、としている。[小浜、2004:68-131]この意味の体系それぞれから、若者の身体性の喪失と「ダンス」することによる身体性の回復のあり方を考察していきたい。
㈰身体は、生理機構あるいは内的システムである。
まず一個の身体は、生命機能を統一させたシステムである。身体は様々な機能を分担する臓器や骨格、筋肉、感覚器などの組織や器官系が連合してまとまった統一体である。呼吸や血流など個々の機能や働きは、正常な状態では意識されないが、けがや病気などの異変によって私たちはそういったものを意識するようになる。私たちは、生理機構である身体を忘れることで正常な身体や健全な身体や精神でいることができる。[同:70-71]
だが、若者は、観念に取り憑かれていることによって、ピアッシングやサプリメントの接種、過食症と拒食症など過剰な身体への意識をもつようになり、身体固有の判断力や想像力を失っている。
しかし、クラブでの「ダンス」と、イリンクスや至高性の状態は、こうした観念の鎖を取り除く。それは、マクルーハンのいう諸感覚を共通感覚として動員し、全身を解きほぐす「クールなメディアによる全身マッサージ」[小川、1988:13]であるからだ。
㈪身体は、主観的な世界イメージを成立させる座である
身体と心に分節できない全心身は、ただ存在するということで、常に世界と向かい合い、主観的な世界イメージを成立させている。ここでいう主観的なイメージ世界とは、まわりの世界はこんなふうである、という全体的な「感じ」のことである。この全体的な感じには、客観的な知覚に限定されない「情緒」的なものが必ず入り込んでくる。[小浜、2004:72-73]
情緒とは、客観的な様々な知覚によって立ち現れてくる、主観が感覚する全体的な趣きのことである。例えば、芥川龍之介の『羅生門』を読んだ人なら、平安京のうらびれた場末の夜の生暖かい空気を感じるような情景を想像できる。同じように、サッカーの観戦の醍醐味は、ゲームの進行を見ることだけでなく、スタジアムの空気感や他者の歓声と一体となった趣きの中にある。情緒とは、そういった全体的な趣きのことである。
だが、現在の若者たちは友達関係においては相手を傷つけないために繊細な配慮をおこない、過剰な情緒の探り合いを行っている。一方で、公共空間において情緒の共有が欠如しているため、他者が意味ある他者として認識されない。
クラブでは情緒は心地いいほどに適度に共有されている。クラブでの情緒とは、 音楽とサウンド、闇と照明や映像による光、スモークや汗・香水・タバコといったものの匂い、足で感じるフロアの床の質感、クラブの空間感やクラバーの密集による温度、他者の身体との間接的・直接的な接触、カクテルとタバコの味覚、ダンスする身体のノリの感覚、そして、イリンクスや至高性の体験、それらが一体になった心身が感じ取り記憶する何かである。
かつて、ニューヨークに、ウェア・ハウスと同時期に現在のクラブ・カルチャーの先駆けとして存在していた伝説のクラブ「パラダイス・ガレージ」があった。そこでのラリー・レヴァンのDJプレイ、サウンド・システムやハコの構造がもたらすサウンド、照明効果、クラバーが感じるハコの質感、そして、そういったものがもたらすめくるめく熱狂を再現するために、一部のクラブの経営者やDJは人生をかけている。[湯山、2005:256-265]パラダイス・ガレージは、現在の世界中のほとんどのクラブの模範となっている。「パラダイス・ガレージの記憶」つまり、クラブにおける情緒は共有され伝達されているのだ。
㈫身体は、外的世界との関係を変更する手段である。
私たちは自分の身体を動かすことができ、その気になればいつでも、可能な範囲でいつでも自分と対象の関係を変えることができる。私たちは自分の身体と対象との位置や距離、視点と角度、接触の深さなどを変えることによって、空間内の事物の全貌に関する概念やイメージの身体的な記憶を積み重ねてきた。身体が外的世界との関係を変える手段であることによって、私たちは、主観的な世界イメージを、より多面的で豊かな、重層的なものにしてきた。[同:90]また、知覚という現象自体がすでに、私たちにとってどうでもいいニュートラルなものではなく、それ自体として身体の一つの可能性となっている。[同:91]
「働かない身体」の苦しさとは、こういった喜びや可能性を得られないことによって感じる感覚である。また、こういったものを見失っている人たちがニートやひきこもりだとも考えられる。
クラブにおいては、クラバーは能動的な「ダンス」によって、身体は積極的に複合的な知覚を経験し、対象を、世界を知覚する喜びを得ようとする。また、「ダンス」の身体技法は、テクニックが必要ない。クラブでの「ダンス」は、ほとんど無条件で「働かない身体」の苦しさを癒してくれる。
㈬身体は、他者との関係における相互認知、相互交渉の手がかりである。
私たちは、身体が存在することによって、たがいに相手の存在を特定の相手として認めることができ、それに基づいてあらゆる人間的な交渉を試みることができる。また、人間は共同性を作ることによってのみ生を構成する存在であり、そうした共同的な生が成り立つためには、一つの身体がそれぞれ固有の特徴を備えて、ある場面ではそれが認知される必要がある。「私はひとりの人間である」という中心性の意識を獲得するためには、内発的な身体表現が他者の内にある影響を及ぼさなくてはならない。そのためには、私の身体が、他者から、ここに自分たちの同類がいるという承認のまなざし、扱い、関心、配慮を受けとらなくてはならない。[同:96-97]
だが、こういった他者からの承認や関心を受けられず、他者に自らの身体表現を伝えることができないのがコミュニケーションの「負け組」やひきこもりである。
クラブにおいては、クラバーたちは匿名的な他者であるが、目的や価値を共有する同類である。また、クラブという空間では「ダンス」やハイタッチ、拳を突き上げることなどによって活発な身体表現が交わされ、それが拒否されることはほとんどない。どんな「ダンス」をしてもよいわけではないが、「ダンス」によるコミュニケーションに参加する権利は誰にでも平等に与えられる。
5.2.5.身体が「わかり」あう
だが、以上の4項目は一般的・抽象的な相互認知・相互交渉のレベルでの説明であり、私の身体が存在することの意味の重要な部分を際立たせるにはまだ不十分である。
身体を動かすにたる意味や価値のあること、真実らしく思えることがらの信頼を支えているのは、直接的な知覚以外には、人間同士の関係である。人が普遍的な人間的な価値を得るためには、「エロス的な関係」や「社会的な関係」を築き、エロス的な他者や社会的な他者から承認され、それによってどのような自己了解、自己承認を組み上げるか、ということが問題となる。[小浜、2004:107・131]
㈭身体は、エロス的な関係の価値を創造したり維持したり破壊したりする目標である。
「エロス的な関係」とは、個別的に限定された相互認知と相互交渉の関係である。主体は、相手の身体と人格を、まさにその特殊な身体と人格の持ち主として直接的にめがける。この関係において働いている原理は「情緒」である。[同:107]
それに対して「社会的な関係」とは、一般的な相互認知と相互交渉の関係である。それぞれが一定の役割を担うかたちで結びつき、互いに相手を自分の欲求や意志や行動を満たすための「手段」として感知し、そのような存在として振る舞う。この関係では、結びつきを根拠づける身体や人格の実質が、「この人」でならないということはなく、入れ替えることができる。この関係において働いている原理は、「利害にもとづく合意」である。[同:108]
もし、若者たちがこうしたエロス的な関係が築けるなら、あらゆる身体やコミュニケーションの問題はほぼ解決されるだろう。しかし、現在では友達や家族などと日常の場面においてエロス的な関係を築くことは難しい。
クラブにおけるクラバーたちの関係は、匿名で一時的なものでありエロス的な関係ではない。また、他者はイリンクスや至高性に至るための手段であり、そこでは「利害にもとづく合意」が成立しているが、一方で「情緒」の体験を目的にしたり、その体験と価値を共有したりする意味のある他者でもある。そういった特殊な関係性を「クラブ的関係」と定義したい。
クラバーたちは、その「クラブ的関係」のなかで、時にはセックスに近いようなエロス的な体験である至高性の状態を共有する。湯山玲子は、前述した他者との呼吸や意識のツボが合うことは、見ず知らずの人とベッドインしているようなものであり、お互いにサウンドの快楽にやられた顔は、恋人だけに見ることができるシークレットな表情、だと述べている。クラブのフロアでは「素の自分の表現」を気負いなく行うことができる。セックスの行為の中では、他者との日常のデリケートなコミュニケーションのあり方はなくなり、脳と身体はそれまでとは違う次元の感覚に入る。クラブにおいても大音量のサウンドの中で、男女間の差異は曖昧になり快楽の前に心身は溶解していく。だが、クラブはディスコと違い性の匂いは希薄である。クラブは、神聖な雰囲気の中で見ず知らずの他者とセックスそのもののような体験をする空間なのだ。[湯山、2005:16-19]
そして、そういった関係を濃密で持続的にするものは、他者と「心」や「内面」のはたらきによる「情緒的な開かれ」を交感し共通了解を得ることであり、(広義の)身体表現が「わかるかわからないか」が問題となる。また、その「わかる」とは、身体として存在する私のこれからのあり方を、情緒のはたらきを通して、人間の関係世界の中に方向付けるということでもある。
クラブでの「ダンス」やほかの様々な身体表現は、ほとんど拒否されることなく受け入れられる。日常の場面では、消極的であったり歪められたりしている身体表現が、そこでは活発なものになる。ほぼ無条件に、匿名の他者たちと「わかる」関係が成り立つ。その「わかり」はノンウ゛ァーバルで論理的なものではなく、覚醒した身体が内奥から「わかり」あう関係である。また、そういうように身体表現が受け入れられるということは、クラブ的関係への単なる参加であるだけではなく互いによるさらなる強化でもあり、社会性のなさや現代社会の歪んだコミュニケーションのあり方で喪失している身体性を回復することにつながるのではないだろうか。
かつて、ギリシャ人たちは、オリンピックなどの祝祭の競技に参加し、至高性という「聖なる瞬間」を経験することで、日常の世界を越えた深い意味のある体験をし、その強い生の体験に彼らは当の社会での生きる意味、つまりアイデンティティを見出していたという。また、そういった文化装置はどのような社会にも保持されている。[井上・亀山編、1999:99]
だが、現代社会では、そういった至高性を得られる場はごく限られたものになっている。だが、これまでに述べてきたように、クラブではこうしたプリミティブで強烈なイリンクスや至高性の感覚を体験することができる。クラブで「ダンス」すれば誰でも、イリンクスや至高性の中で他者との一体感や肯定的な感情を得て、生きる意味やアイデンティティを確認することができる。
5.2.6.「終わらない日常」のなかで
現代の日本社会では、イリンクスや至高性の存在、そしてそれらへの欲求が失われている。宮台真司は日本の成熟した社会を、輝かしい進歩もなくおぞましい破壊やサブライム(崇高)も起こらない、学校的な日常の戯れが永遠に続く「終わらない日常」だとしている。[宮台、1998:88] その「終わらない日常」を「まったり」と脱力して生きる術を熟知している95年当時のブルセラ女子高生は、「輝ける青春や、絶対的な純粋さなんてものはこの世に存在しない。」ことに気づいているという。彼女たちは「諦めるべきものを初めから知らない」。[同:120・136]宮台はこの傾向は、「クラバー・キッズ」や「スケーター」といったかたちで、ライフ・スタイルの中に都市の表象や汚れを取り込んでいくことで男子にも見られるようになってきている、とも指摘している。[同:144]
そして、思春期に差し掛かった頃にはバブル経済が崩壊していて、不況の世の中しか体験したことがなく、閉塞的な文化状況しか知らないポスト団魂世代以降の若者にとっては、特定のライフ・スタイルファッションに属していなくても全体としてこの傾向はこの10年の間にさらに強いものになったと思われる。だからこそ、日韓W杯のようなサブライムが起こったときに、六本木や心斎橋での若者の騒動のような破壊が起こったのではないだろうか?
最近の若者の間では、「天然ボケ」のような生来的な持ち味である「キャラ」に価値が見出されるという[土井、2004:24]また、現在の若者が幸福感や充実感を得られるかといった峻別は、コミュニケーション・スキルの有無によっておこるという。[斎藤、2005:19-21]例えば、小学校で人気者になった者は、経済的な成功を得られなかったとしても、その後の人生も充実感をもって生きていける可能性が高い。しかし、自分は日の当たらない場所にいると思い込んだ者は、社会的成功を得たあとでも一生、劣等感を持ちつづける。だが、「キャラ」を変えることはとても難しい、あるいはそれはできない。常に劣等感を感じている「負け組」は、さらにコミュニケーションの回路を閉じて負け組のままでいることになる。未来に希望を見出せない、社会の変革が起こることのない「終わらない日常」がさらにこういった意識や現象に拍車をかける。
テクノのクラブに集まるクラバーは、ブルセラ女子高生や「クラバー・キッズ」のような「社会に適合できるアウトロー」ではない。外見、そしてライフ・スタイルの全般には、クラブ.カルチャーを持ち込まない。“テクノ”は、純粋に鑑賞し「ダンス」するための音楽であり、外見やライフ・スタイルにそれを持ち込む必要はない。テクノのパーティーでは、本当にテクノが好きかどうか、クラブで“ダンス”することが好きかどうかだけが問われる。
“ダンス”は、ロバート・N・ベラーのいう「良い感じ」の生理的な感覚や衝動[土井、2004:31]の追求であるのかもしれない。だが、その「良い感じ」は、ノリの体験の積み重ねによって、クラブ・カルチャーの規範となり「善いこと」として共有される。また、それは、内発的な衝動による共依存関係かもしれない。[同:53-54]だが、非日常の一時的な関係であり、日常生活での大きな問題とはならない。また、そこでは、「やさしい」気遣いやキャラ、日常でのコミュニケーション・スキルは問題にならない。重要なのは、音楽とサウンドに没入して“ダンス”することだけである。
クラブという文化装置によって構築されるサブライムへの参加、“ダンス”することは「終わらない日常」をうまく生きていくためのコミュニケーション・スキルなのだ。