3.1.テクノ・シーンの歴史的形成
3.1.1.クラブのルーツ、ディスコ
ディスコやクラブを特徴づけるのは、バンドやオーケストラによる生演奏ではなく、レコード等の音盤の再生によって音楽を楽しむ施設であるという点である。では、そういったディスコやクラブといった施設やカルチャーどのようにして形成されてきたのだろうか?
元々のディスクコティーク(discothèque)のルーツは、第二次大戦下のフランスでナチス占領下においてバンドによる生演奏が禁止され、ナイト・クラブでレコードの音楽を楽しんでいたことに由来する。オーケストラやバンドを雇わずに済み経費が安くつくため、戦後もその形態は残りディスコの原型となった。[野田、2001:26]
ニューヨークで最初にオープンしたディスコは1960年にオープンした「ル・クラブ」である。だが、そこではDJプレイはまだほんのBGMで、そこに現在のようなパフォーマンスとしてのDJプレイやダンスの熱狂はなかった。[同:27]
他方で、クラブ・カルチャーやクラブという形態の施設のルーツのひとつとなるのは、イギリスのサブ・カルチャー、ユース・カルチャーにおけるテディ・ボーイやモッズから続きパンクに至るダンス・ホールやDJカルチャーである。例えば、モッズは、下層・労働者階級の若者が、ディテールにこだわった細身のスーツ、マッシュルーム・カットといったスタイルやブラック・ミュージックのエモーションに自らを結びつけ、差異化することによって、虐げられた日常に対する抵抗をし、クラブという場において非日常的な快楽を得ていた[野田、2001:27-28・サベージ、1999:21-73・130-145]
ディスコでは、ひとつひとつの楽曲はフェードアウト/フェードインで切断され、曲間にナレーションが挿入されイウ゛ェントが進行していくが、現在のミックス・スタイルのDJプレイを発明したのはニューヨークのディスコ・シーンのDJフランシス・グラッソだという。
60年代のニューヨークのディスコの音楽の主流はロックであり、踊っているのは白人の中産階級だった。しかし、アシッド・ロックやプログレッシヴ・ロックという「ダンス」の要素のない音楽の流行や、ドラッグの蔓延に対する当局のクラブへの取り締まりにより、ディスコというものは「時代遅れ」になり、危機の時代を迎える。残ったクラブは黒人やヒスパニック、白人の労働者階級に対してフロアを開放し、ボディ・ミュージックとしてのグルーヴの効いたダンス・ミュージック、特にブラック・ミュージックをセールス・ポイントとして新たな段階へ変貌することになる。[野田、2001:33]
60年代終盤、ニューヨークのイタリア系DJ、フランシス・グラッソは、そういったディスコ・シーンに対応する表現として世界で初めて二枚のレコードによるミックスを発明した。そして、グラッソは二枚のレコードのミックスによる新たな音楽の創出、様々なジャンルを使ったストーリー性のあるDJプレイを産み出し、モダンDJの原型となった。[同:35-36]
3.1.2.ハウスからテクノへ
現在の四つ打のダンス・ミュージックやクラブという施設やカルチャーの直接の源流となったのは、70年代終盤から80年代初期に生まれたシカゴ・ハウスである。
「ハウス」という音楽ジャンルの名称は、1977年から82年までシカゴに存在した倉庫を改造した造られたゲイ・クラブ「ウェア・ハウス」に由来する。この「ウェア・ハウス」にニューヨークから専属のDJとして招聘されたフランキー・ナックルズのDJスタイルがハウス・ミュージックの原型とされる。[三田 他、1993:72]
オリジナルのハウス・ミュージックのレコードが制作され始めるのは、80年代前半であるが、“ハウス・ミュージック”が存在しない当時、フランキー・ナックルズはどのようなレコードを用いてハウス・ミュージックを創造したのだろうか?小泉雅史は以下の4つに大別している。①70年代のフィリー・ソウル(フィラデルフィア・ソウル)やモータウンといったソウル・ミュージック。(O’jays “I Love Music” 1975)②電子楽器を多用したヨーロッパのミュンヘン・ディスコやテクノ・ポップ。(Kraftwerk “Trans-Europe Express” 1977)③チル・アウト用のミニマム・ミュージックや実験的なプログレッシヴ・ロック。(Manuel Gottshing ”E2-E4” 1984)④白人によるニュー・ウェイヴ(New Order ”Blue Monday” 1983)で、特にアフロっぽいものやファンクっぽいもの。(Talking Heads ”Once In A Lifetime” 1981)その4つである。[同:73] さらに、ナックルズは自身で制作したオープン・リールに録音したリズム・トラックをDJプレイにミックスするといったことも行っていて、そこから発展して自身でクラブに特化した音源の制作を始める。[三田他:74・野田、2001:92]また、それと前後してナックルズにインスパイアされた黒人たちの中にチープなミュージック・シーケンサー(演奏データやシンセサイザーの制御データを録音・再生・管理し、作曲や伴奏、パフォーマンスに用いる電子機器)やリズム・マシーン、サンプラー(サウンドをメモリーし、必要があれば加工し、楽器として任意にトリガーし再生する機器)を用いて自宅録音を始めるものが現われ、ハウス・ミュージックのレコードが登場し始める。[三田 他:74・野田、2001:102-110] シカゴ・ハウスの特徴を簡潔に表現するなら、ブラック・ミュージック特有のグルーヴ感と華やかなストリングスの使用といったソウル・ミュージックのアレンジ(Frankie Knukles “Your Love”)、電子楽器の使用による反復性や刺激的なサウンド、(Lil’ Louis “French Kiss” 1989)それに現代音楽の様な音響的な実験性の融合だと言える。(Mr. Fingers “Can You Feel It” 1987)DJプレイによる様々なジャンルの音楽の邂逅と融合によってハウス・ミュージックは生み出された。
また、シカゴ・ハウスは、現在のクラブ・カルチャーの直接のルーツでもある。それまでのディスコはヨーロッパのブランドものを着て、めかしこんで行くところであった。だが、シカゴ・ハウスのクラブでは汗だくになって踊るために、お洒落は意味をなさないものになり、ドレス・ダウン現象が起きる。ファッションは、カジュアルで動きやすいバギー・パンツとスポーツ・ウェアが基本になった。ダンスのスタイルもルールのない自由なものになる。[野田、2003:101]
そして、1980年代の半ばにシカゴ・ハウスやテクノ・ポップ、Pファンクの影響を受けて誕生するのが、「デトロイト・テクノ」と呼ばれるスタイルの電子音楽である。現在、「テクノ」と呼ばれるジャンルの音楽の実質的なルーツはこの「デトロイト・テクノ」にある。[増田、2005:19-20・三田他、1993:97-98]
Belleville Threeと呼ばれるデトロイト郊外の同じ高校に通っていたホワン・アトキンス、デリック・メイ、ケウ゛ィン・サンダーソンの三人がデトロイト・テクノの真のオリジネータートだとされている。ホワン・アトキンスは、マニアックなジャズやブラック・ミュージックの知識や高度な音楽制作の技術を持ち、クラフトワークやPファンクからの影響を受けたエレクトロ・ポップを制作していたが、(Model 500 ”No UFO’s” 1985)デリック・メイはアトキンスのレコードをシカゴに売りにいった際にシカゴ・ハウスに衝撃を受け、そこにダンス・ミュージックという要素を持ち込んだ。(Rhythim Is Rhythim “Nude Photo” 1986)ケウ゛ィン・サンダーソンは、「Inner City」というハウス・スタイルのユニットで”Good life”を英米のポピュラー・チャートや日本のFMラジオ局でヒットさせ、商業的な成功を手にした。(Inner City “Good Life” 1988)[三田 他:91-92]
デトロイト・テクノの楽曲は、ほとんど一人のアーティストによって、安価なミュージック・シーケンサーやシンセサイザー、リズム・マシンによって制作される。野田努は、デリック・メイの楽曲を以下のように説明している。「これらの曲を構成する音は、ほとんどTRのドラムとベースと、遠慮気味に入るシンセだけである。音数があまりにも少ない。少ないどころかたったの三つか四つ程度である。しかしそこには彼が自ら“エモーショナル・テクノ”と呼ぶ、何とも言えない叙情が聴いて取れるのだ。彼らは、人間の、言葉で語り尽くせぬある感情をテクノで表現しようとしたのである。」[三田 他:99](Rhythim Is Rhythim “It Is What It Is” 1988)(TRとは、ハウス〜テクノ・シーンの生み出す要因のひとつとなったローランド社のTR-808, 909, 707, 606といったリズム・マシンのことである。TR-909による四つ打ちのバスドラムと16分のハイハットは、ハウス〜テクノの典型とされるサウンドであり、現在でもそれらは制作に用いられ、中古市場でも高額で取引されている。また、サンプリングされたり、シミュレートされた音源がシンセサイザー音源やサンプリング・ソースとして収録されている。)
デトロイト・テクノのシカゴ・ハウスとの違いは、ヴォーカルが入っていないものがほとんどであること、テンポが比較的速いこと、それに享楽的ではない叙情性やサイバネティックなフィーリングである。
デトロイト・テクノは革新的な音楽であったが、当時のデトロイトのクラブシーンは不活発であり、制作したレコードはシカゴやニューヨークに向けて売られていた。そして、のちにイギリスのアシッド・ハウスのレイヴ・ムーヴメントなかで「アンセム」として用いられ高い評価を受けることになる。(Rhythim Is Rhythim “”Strings Of The Strings Of Life” 1987)
3.1.3.現在のテクノ・シーンの形成
現在のテクノ・シーンの形成は、海外では大衆向けの野外レイウ゛で、日本ではバブル期に「ジュリアナ東京」のようなディスコで踊られたハードコア・テクノに対する音楽的・風紀的な批判が原点になっている。
80年代終盤のイギリスでは、アメリカから輸入されたシカゴ・ハウスの一つの発展形態であるアシッド・ハウスを用いた、野外レイウ゛が大流行し、88年にはそのピークを迎えていた。それは、サッチャー政権の階級差別的な政策へのイデオロギーなき抵抗として、下層・労働者階級だけではなく、ある程度広い層に受け入れられた。[サベージ:7-9・増田:17-18]
アシッド・ハウスは、ローランド社のベース・マシンTB-303とリズム・マシンTR-808やTR-606を中心としたごく少ない機材のみで制作される。それらの機材の機械的で単純なほとんど単一のフレーズの繰り返しで楽曲は構成される。そのアシッド・ハウスの最大の特徴となるのが、TB-303のレゾナンスを上げたフィルターの発振による「ウニョウニョ」と形態模写される奇天烈で麻薬的で過激な音色の変調である。(Phuture “Acid Track” 1987)アシッド・ハウスは、現在の感覚では、音楽やカルチャーとしては、実質「ハウス・ミュージック」ではなく「テクノ」であると言っていい。
アシッド・ハウスのレイウ゛は現在のクラブ・シーンのもうひとつの直接のルーツであり、現在、活躍しているヨーロッパのテクノやハウスのDJの多くは、アシッド・ハウス・ムーブメントによって初めてダンス・ミュージックを知り、キャリアをスタートさせている。
だが、レイウ゛は、90年代初頭には、大衆化・大規模化していき、音楽はハードコア・テクノへと移り変わっていった。ハードコア・テクノは、過激なブレイク・ビーツ(サンプラー上でリズムパターンのサンプルを切り取り、シーケンサー上で再構成したもの。)やド派手なオケ・ヒット(オーケストラ・ヒット)やシャウトのサンプリング音を多用し、メカニカルな打ち込みで制作された音楽である。(L.A.Style “James Brown Is Dead” 1991)また、そのハードコア・テクノを用いたレイウ゛の現場では、質の悪いドラッグが出回るなど、犯罪が多発していたという。[増田、2005:23-24]
そういった野外レイウ゛に対する音楽ジャーナリズム、そしてアーティストやDJたちの批判は、音楽的により趣味のよいテクノ、初期のテクノ=デトロイト・テクノに忠実なテクノを求め、より芸術的・作品主義的なイデオロギーの方向を指向していくようになる。そのようなアンチ・レイウ゛のイデオロギーの表面化が、「踊るためではないダンス・ミュージック」である「インテリジェンス・テクノ」(Ken Ishii “Pneuma” 1993)、あるいはそれと重複する部分もある「デトロイト・リウ゛ァイウ゛ァル」(Underground Resistence “Hi-tech Jazz” 1993・Red Planet ”Star Dancer” 1993)の流れをうみ出した。そして、ダンス・ミュージックという枠組みからイデオロギー的に自由になったテクノは、自立したアイデンティティを確立し、言語的な制約を持たない音楽であるとこもあって、世界中で流行していくことになる。[同:25-26]
3.1.4.日本のテクノ・シーン
テクノのルーツであるデトロイト・テクノは、イギリスのアシッド・ハウス・シーンでは知られていた存在だったが、日本にはほとんど情報が伝わっていなかった。インテリジェンス・テクノから再出発したテクノのムーヴメントの余波は、日本にもやって来た。レコードが輸入され、ハウスや一部のヒップホップのDJがテクノのレコードを用いるようになり、また、海外からテクノのDJが来日することで93〜94年ごろから日本でテクノのパーティーが本格的に行われるようになった。[湯山、2005:238-240・高橋、2007:262-263]
そして96年、日本を代表するテクノDJ石野卓球が参加するテクノ・ポップ・ユニット、電気グルーヴの「Shangri-La」のヒット(電気グルーヴ ”Shangri-La” 1997、オリコン10位。同曲を収録したアルバム『A』はオリコン最高3位。)で一般へのテクノの認知は高まり、逆輸入アーティスト、ケン・イシイが「Extra」でのブレイクでヒーローとなり、(Ken Ishii “Extra” 1995)また、ソニー・レコードからのデトロイト・テクノを中心とする多くのテクノの名盤のディストリビューション、日本初の大規模なテクノの野外レイウ゛「レインボー2000」の開催とそれをNHKの番組「ソリトン」が特集したことでテクノは大ブームを迎えることになる。そのブームは1999〜2000年頃まで続いた。ブームが終わった現在でも、テクノはクラブ・シーンで大きな勢力を保っている。クラブ雑誌のレコード・レヴューはテクノが先頭で、都内の主要なクラブの週末のパーティーはテクノが中心である。
また、日本のクラブ・カルチャーはソウルやニューウェーブのディスコに海外からハウスやヒップ・ホップなどの音楽やそのDJミックスのスタイルを輸入したものとして産まれてきた。[スタジオボイス 2004年8月号:21]それは、最初から音楽とスタイルを楽しむための場としてつくられ、決して階級的な原理によってつくられた場ではない。日本のクラブ.カルチャーは純粋に音楽を楽しむ場としての要素が強いと考えられる。
そして、海外のDJやレコード・レーベルにとって日本、特に東京のクラブ・シーンは最も重要で巨大なマーケットであり、一部のDJは年に何回も来日することもある。東京は世界で最もパーティーが多く開催され、そのラインナップが充実している都市の一つである。
3.2.テクノ・シーンのイデオロギー性
3.2.1.イデオロギーの音楽=テクノ
テクノには、「今日の比較的ミニマムな構造を持った電子音楽」であるという以外の明確な共通点がほとんどなく[増田、2005:27]、「テクノ」というジャンル・イデオロギーが、DJやアーティスト、クラバーにとって、意識しないとしても重要なものとなる。
「イデオロギー」を、最も簡単に説明するなら、物質的な基盤の上に現われる「その社会における支配的な意識」である。[毛利、2007:20]テクノのイデオロギー、それは、具体的には決してハードコア・テクノにならない硬質なサウンドとしての作品性や芸術性と、気持よくダンスできることである機能性の両立である。だが、それは一貫性と論理性をもった表象と主張の体系であり、説得や拒否に動じることはないが、根本の価値を客観的に説明できないイデオロギーである。
そういったテクノのイデオロギーの重要な要素として「グルーヴ」の存在が挙げられる。グルーヴとは、元来、ジャズやソウル、ファンクなどのブラック・ミュージックにおける黒人が演奏するドラムやベースの独特のリズム感と「間」の感覚のことをいう。それが、現在では音楽の中の規則性のなかの不規則性がもたらすノリ、さらにそこから敷衍してそういったものがもたらす場の雰囲気を言い表す言葉となっている。ブラック・ミュージックがルーツであるテクノや多くのハウスでは、グルーヴが大きな存在理由となる。一方、同じ四つ打ちのダンス・ミュージックでもトランスといったジャンルやハードコア・テクノ、ハード・ハウスといったサブ・ジャンルなどの中にはグルーヴは存在しない。(ハードコア・テクノは本論で述べているデトロイト・テクノをルーツとし、それを中核とするテクノ・シーンにおける狭義の「テクノ」ではない。)
また、ハウス・ミュージックでは、プログレッシブ・ハウス、ディープ・ハウス、ハード・ハウスなどのサブ・ジャンルの明確な分類があり、それぞれのジャンルはあまり交流はなく、メジャーなものからアンダーグラウンドなものまでシーンが幅広く存在するが、それに比べて、テクノでは、音楽がイデオロギーの条件を満たしていれば、明確なサブ・ジャンルの分類やメジャー/アンダーグラウンドの大きな差が存在しない。テクノが好きな人なら、ほとんどどんなテクノでも聴くことができ、テクノが好きな人同士なら、どんな人ともコミュニケーションを容易にとることができる。
テクノはイデオロギーの音楽であり、「わかる者にだけわかればいい」のであって、アーティストやDJは、経済的な側面と両立させながら、自由な表現活動ができることを優先し、自らによるレコード・レーベルの運営やハーティーのオーガナイズを行う。そういった姿勢とそれによって体現される音楽性がテクノ・シーンの長期的なの安定した人気、北米・西欧・日本だけではない、特に北欧・東欧・東アジア・南米を含む全世界での国籍や文化を問わないグローバルな広がりをもり音楽シーンを形成している。また、ファブリス・リグ(ベルギー)やヨーリス・ウ゛ォーン(オランダ)など、アメリカ、イギリス、ドイツ、日本以外の地域のアーティストがシーンに登場している。
クラバーたちは、純粋に音楽でダンスし高揚感を得ることを第一の目的にパーティーに集まる。なので、クラブは性の匂いがするナンパをするような雰囲気の空間ではない。湯山玲子は、ディスコと比較したクラブの雰囲気について以下のように述べている。「現在のクラブには性の匂いが希薄なのだ。「扇情的」であるはずの音楽は、エレクトリック・ミュージックの宿命ゆえに、もはや意味やロマンを剥奪される。サウンドシステムの爆音により、それはいっそう無機的に発射され、もしも踊る者の内側に「ムラムラ」が湧き起こっても、その情動は、新幹線の窓から見える看板の文字のように、一瞬のうちに過去のものになってしまう。」[湯山、2005:16]
また椹木野衣は、テクノの持っているこういったある種の真面目さについて以下のように述べている。テクノ・ポップやポップスのなかのテクノ的なものにおける身体のイメージは、「内面化された「人間」からアイロニカルに距離をとるものであり、「人間」という観念がもつイデオロギーを浮き彫りにしようとするもの」である。その一方で、テクノの音楽性は、「身体性、肉体性というような、どちらかといえばヒューマンな要素を、新しい都市や人間とのネットワークの中で、どうやって表現していくか、ということと密接に繋がっている」としている。[久保田 監修、2001:82]
3.2.2.「テクノ」の定義
現在、クラブ・シーンの中で「テクノ」と呼ばれているのはデトロイト・テクノやアシッド・ハウスをルーツとして、その系譜を引き継いでいる音楽である。デトロイト・テクノ以前に「テクノ」は存在しない。日本では87年以前に「テクノ・ポップ」や「テクノ」という言葉が使われていたが、それは坂本龍一の「テクノ・ポップ」という言葉の造語に由来するものであると考えられる。日本では、ディペッシュ・モードやヤズー、ニュー・オーダーなどの電子楽器を導入したニューウェーウ゛を「エレポップ」と呼称し、その中でもクラフトワークを先駆とするテレックスやイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)、ディーウ゛ォなど全面的に電子楽器を使用し反復性が強く、ファッションを含めた独自の様式美を持つものを「テクノ・ポップ」と呼んでいた。さらに、日本では、エレ・ポップ、テクノ・ポップやジョルジオ・モロダーのミュンヒェン・ディスコ・サウンド=「ニュー・エナジー」など電子的なサウンドを前面に押し出した音楽をまとめて「テクノ」と呼んでいたようである。ただし、海外では、エレ・ポップ/テクノ・ポップの区別はなく、それらは「シンセ・ポップ」と呼ばれており、当時、海外で「テクノ」という言葉が用いられていたのかわからない。ともかく、「テクノ」というジャンル名は、デトロイト・テクノのオリジネーターであるホワン・アトキンスが造語したということになっている。
一般にはユーロ・ビートやトランスといった四つ打のダンス・ミュージックも“テクノ”と呼ばれるが全く音楽的なルーツや内実の異なる音楽である。ユーロ・ビートや、ハード・コア・テクノ、トランスのルーツはイタロ・ハウスやニュー・エナジーといったヨーロッパのディスコ・ミュージックであり、ハウスやテクノといったソウルやファンクといったブラック・ミュージックの系譜を引き継いでいる音楽ジャンルとは全く系統が異なる。また、ハウスやテクノの最大の特徴である、四つ打のバス・ドラムのリズムはソウル・ミュージックに由来するものである。
デトロイト・テクノは、もともとはハウスの一つサブ・ジャンルだった。現在ではテクノとハウスはそれぞれ独立して発展しているが、そのジャンルの違いを明確に表現することは難しい「ハウスは、テクノに較べてヒューマンなグルーヴやエモーションを感じる音楽。」とされることもあるが、この基準だけでテクノとハウスを分かつことはできないし、この判断基準は間違っていると思う。ハウス・ミュージックの全般的な特徴を挙げるなら、ソウル・ミュージックの影響が強いことだと言えるが、プログレッシヴ・ハウスなどソウルなどブラック・ミュージックの要素のないサブ・ジャンルも存在する。テクノとハウスの境界はあいまいな部分もあるが、デトロイト・テクノの影響下にある音楽が「テクノ」であり、シカゴ・ハウスから続く系譜にある音楽が「ハウス・ミュージック」である。この区別は音楽のイデオロギーにかかわる事柄なのでクラバーやDJにとっては基本的にはとても重要であり、テクノとハウスの間には確かな区別が存在する。その一方で、ハウスのトラックがテクノ・シーンでヒットしたり、テクノのトラックがハウス・シーンでヒットするということも起こってきた。現在、テクノとハウスの中間的なジャンルであるテック・ハウスのDJがテクノ/ハウス両方のディスクを用いたDJプレイを行ったり、プログレッシヴ・ハウスのDJがハード・テクノやヨーロッパのデトロイト・テクノの影響を受けたアーティストたち「デトロイト・フォロワー」のトラックを用いたり、テック・ハウス、ディープ・プログレッシヴ(ハウス)、ミニマム・ハウス、エレクトロ・ハウス、ディープ・ミニマム(テクノ)といったサブ・ジャンツは明確な区別が難しくDJがそれらを混在させたDJプレイをしている、といった形でシーンが接近している。