バリ島のガムラン

 バリ島のガムランは、宗教儀式と音楽との深い結びつきと稲作農耕文化の共同体社会の伝統の中から生まれてきた。  ガムランをはじめとする東南アジアの旋律打楽器のルーツは、ドンソン文化という青銅器文化にあるという。ドンソン文化とは、紀元前10世紀半ばから紀元1世紀にかけてインドネシアに伝播した稲作農耕文化である。この文化は、「ドンソン銅鼓」という青銅器の鼓を、農耕儀礼に関わる宗教上の「法器」として用いたという。  ガムランの楽器の原型は、8〜9世紀の遺跡のレリーフの中に見られる。7世紀から10世紀までには、インドからヒンドゥー教文化が伝えられ、インドネシアの芸能・音楽に大きな影響を与える。具体的には、「ラーマーヤナ」「マハーバーラタ」の二大叙事詩である。ヒンドゥー教文化が、13世紀にインドネシアを支配したマジャパヒト王国の全盛期に黄金時代を迎え、この地に特有の旋律打楽器合奏として展開される。この時代のガムランは、冠婚葬祭や通過儀礼に深い関係があり、対応する儀礼がかなり特定されていた。  中世のガムランは、15、16世紀に拠点としていたジャワから逃れてきたマジャパヒト王国の末裔がもたらしたガムランである。彼らは、その新天地で伝統あるヒンドゥー文化を中心に、土着の原始宗教や仏教の要素を混同した、独自のバリ=ヒンドゥーの文化を作り上げる。これ以降、バリの芸能は王宮を中心に発達する。舞踊の種類が増えてくるのもこの時期で、特に王の祭政一致による儀礼芸能(仮面劇など)が発達し、その伴奏のための大編成ガムラン・ゴング・グデが登場する。  一方、鑑賞用の芸術舞踊の萌芽も始まり、今日のバリ舞踊の古典といわれるレゴン・ダンスも、この時期を最後に登場する。  バリにおける近代とは、20世紀初頭のオランダによる侵略以降を指す。オランダによって西洋文化との接触が始まり、今日のバリ文化の基礎が形成された。いわゆる「地上の楽園バリ」の誕生である。  この時代の主役は、一般の村人達である。それまで王宮で用いられていたガムランが民間に払い下げられたり、貸し出されたりした。また、ゴング・グデとプレゴンガンの特徴を併せ持った、ゴング・クビャールという新しい演奏形態も生まれた。ゴング・クビャールは新作の器楽曲以外にも、儀礼系の曲や、芸術舞踊の伴奏もでき、さらに神事や一部の精霊供犠にも使えるオールマイティーなガムランとしてバリ中に広まり、現在にいたっている。  バリの社会の基本単位は、「村」よりも一つ小さい単位、バンジャールと呼ばれる村落共同体である。各バンジャールには必ず公民館があり、ガムランの楽器はこの公民館の中に置かれている。バンジャールのガムランの活動は、スクという組織によって行われる。これは音楽好きの村人の同好会、あるいはクラブのようなもので、独自の規約を持ち、選出された世話役によって運営される。スクは祭りでの芸能部門を担当している。儀礼のための音楽と舞踊の練習、余興の芸能の企画、よそのバンジャールの踊り手やガムラン奏者に特別出演してもらう場合のマネージメントなどを、寺のお坊さんと相談しながら行う。そのほか、バンジュールないの公的な音楽活動は、すべてスクの管轄である。  バリの子供は、だいたい5、6歳から、踊りかガムランの演奏を習いはじめる。親が踊り子であったり、ガムラン奏者である場合は、親が教える。そうでない場合は、親戚には一人ぐらい踊り子や奏者がいるので、その親戚が教える。  バリは農業を中心とした共同体社会であり、大家族主義なので、親戚とも家族同然のコンタクトが日常的にある。子供達の周りには生きた「手本」が沢山いて、芸能を中心とした人間関係ができるという。  スクのメンバーは世襲ではないが、親がスクのメンバーだとその子供は自動的にスクの二軍、ないしは予備軍として周囲から目を付けられる。親はスクの練習にひんぱんに子供をつれていく。最初は楽器には触らせずに、大人たちの演奏を見せて、子供が自分も仲間に入りたいという気持ちになるのを待つ。同世代の子供たちが大勢集められることもあるが、大抵は2、3人ずつ大人の中に混じって簡単な楽器から教え込まれる。高齢で引退が近いメンバーのパートに、新しい子供が補充されることもある。子供達は徹底的にしごかれ演奏を身につけていく。そこは完全な実力社会で、子供は大人の社会の仲間入りを果たし生きた芸能を受け継いでいく。  インドネシアでは、日本とは違い欧米のポップスが普及していないという。民族音楽が、宗教とともに生活に根ざしたもののとして、自然にだが強固に伝えられているためだろう。 参考文献 『ガムランを楽しもう』皆川厚一(音楽之友社) 『はじめての世界音楽』拓殖元一(音楽之友社)