哲学史 試験対策ノート

プラトンとアリストテレスの違い

プラトンによると<イデア>とは、「ものごとが何か特定のある規定をそなえていることの根拠である原型」である。イデアは原像であり、すべての個々の事物の世界はその影あるいは模造であるとプラトンは考える。つまり、それはイデア界と現象界との二元論である。このことは<洞窟の比喩>に例えられる。洞窟の内部には鎖につながれ壁の方向しか見ることのできない囚人がいて、外から太陽が照らしている。囚人が見る自分の影は感覚的経験であり、洞窟の中の空間は物質的な現象界、外の世界はイデアの世界、太陽は善のイデアに例えられる。そのように、人間には霊魂が肉体に入る前に見たイデアを想起すること、すなわち<魂の想起>が起こったときなどに、間接的にイデア界をその一部しか認識することしかできない。

アリストテレスの存在論の重要な概念である<形相>とは、「そのものが何であるか」に答えるもの(本質)であり、<質料>とは「ものが何からできているか」に答えるもの(素材)である。形相と質料は、個物にそなわっている不可欠な二側面である。そのようにアリストテレスは一元論として世界を捉える。プラトンはイデアを真に実在する存在者と考えた。これに対してアリストテレスは、感覚に捉えられる個物こそ真の存在者だと見なした。プラトンは、イデア界という現象界とは全く別の世界を想定せざるをえなかったが、アリストテレスによると、形相を質料から切り離して考えることはできない。個物としてのものは、そのものであるという本質を自分自身の中にもっている。アリストテレスは、現実の世界の外にあるイデア界を否定したのだ。

デカルト

近代<合理主義>の特徴とは、思考の論理的な連関をわれわれが認識する世界そのものとし、その連関の根拠を、認識主体としての人間理性の能動的、自発的なはたらきに求めたところである。その合理主義を代表する哲学者がデカルトである、デカルトは、数学は順序と量的関係が問題とされる学問であり、数学諸分野は統合できるものであるとする<普遍数学>を構想する。当時、数学的観念は生得観念であると考えられており、また、その形式的方法を取り出すことですべての学問を基礎づける「普遍学」が構築されうるとデカルトは考えた。

デカルトによれば、すべての人間は、真を偽から判断する能力である良識あるいは理性をもっている。人々が誤った認識や判断をするのは、理性の多少ではなく、理性をよく使う方法を知らないからだとデカルトは考えた。そこでデカルトは学問のための<方法についての四つの規則>を立てる。一つは明証性の規則であり、「明晰かつ判明に私の精神にあらわれるもの以外は判断に入れないこと。」である。二つ目は「分析の規則」であり、「対象とする問題を解くためにできるだけ小さな部分に分析すること」である。三つ目は「総合の規則」であり、単純な認識しやすいものから始めて、順序に従って思想を導くことである。四つ目は「完全枚挙」であり、見落とさないように枚挙し、全体における見通しを行うことである。また、それは単純な原理から演繹に進むという純粋な数学的方法でもある。

そのデカルトが思索の末に到達した哲学の方法が<方法的懐疑>である。これまで正しいと思われてきたあらゆるものをすべて徹底して疑ってみる。なるほど、すべては疑わしい。現実だと思っている生もすべて夢だという可能性は否定できない。ありありとあいた現実の感覚さえ世界の実在の証拠とはならない。しかし、このような懐疑の限界の中でも、ただひとつ「疑えないもの」が残る。それは疑っているコギト(考える私)の存在である。<cogito ergo sum>「我考える、ゆえに我あり」これは絶対疑えない真理であり、哲学の第一原理となるものである。また、これは新しい人間中心的な自然観の基盤となるものであり、デカルトは近代哲学の出発点を確立したのだ。

カントの認識論

カントは、人間の認識は直観の能力としての<感性>と、思惟の能力としての<悟性>が共同してはたらくことによって成り立つとしている、感性は対象によって触発されることにより表象を受け取る能力であるが、それを受け取る形式は感覚それ自体ではなく直感にアプリオリに備わる、時間と空間という<直観の形式>である。だが直感における統一はまだ対象としての統一ではなく、単なる「直感における多様」にすぎない。そこで悟性が概念を用いてこの多様を統一するときに、対象としての統一が成立する。客観的認識は、悟性に備わるアプリオリな概念=<カテゴリー>を使用するときにはじめて成立する。カントは量、質、関係、様相における12のカテゴリーを、判断表を手引きに導きだしている。そして、カントによれば人間の経験的認識は、感覚の所与をカテゴリーによって整序するところに生ずる主観的な「現象」でしかなく、自然界にある現象は認識することができても、叡智界にある<もの自体>は認識することはできない。もの自体としての神、自由にして不滅の霊魂などは、理論的認識の対象ではなく、ただ実践的行動のための要請としてのみ考察の対象となりうるとされる。また、対象の認識が認識のアプリオリな形式によって成り立つということは、認識は対象に依存するという従来の考え方を覆し、対象が認識に依存するということを説いたものとして、思想の上での<コペルニクス的転回>であるとカント自身が述べている。

ヘーゲル

ヘーゲルの哲学は<絶対的観念論>である。あるゆるものを包括した統一体である絶対者を、主体的な精神として規定し、一切の世界の諸相はその精神の自己展開だとする。そして、カントやフィヒテにおいて対立する実体と主体とを媒介する論理が<弁証法>である。いかなるものもそれ自体で自己充足的に存在しているのではない。ある有限なものを、それ自体において絶対的に真であるとすると、そこに矛盾が生じ、一方でその反対ものを真とするとそこにも矛盾が生じる。そこで、その両者は互いに媒介しあう相対的なモメントにすぎないとすると、総合的な見方にアウフヘーベンして事柄を把握しなくては行けなくなる、という必然の論理が弁証法である。また、ヘーゲルにおける<精神>とは、主体として捉えられた絶対者である。精神は主観的精神としては内面の様々な段階をくぐって理性に高まり、客観的精神としては法や人倫や国家といった客観的世界の諸形態をとって現れ、絶対精神としては芸術や宗教の形態をとる。また世界精神としては歴史を動かす力そのものである。

そういった精神の自己運動が社会的倫理として家族・市民社会・国家に体現されるのが<人倫の体系>である。また、ヘーゲルは、絶対精神の自己展開という考え方を歴史そのものにも適用する。「世界精神」は、古代東方諸国、ギリシア的世界、ローマ帝国、キリスト教的ゲルマン的世界という4段階を経て、自らの本質を自覚していき、ついにドイツのプロイセン国家において完全に自らを完成する。それが世界精神の実現過程としての<世界史>である。

中期のフッサール

中期のフッサールは、意識による世界構成の行われ方をそのままに厳密に記述することによって諸学を基礎づけようとする超越論的現象学を確立した。「還元」とは、フッサール現象学の基本概念のひとつで、事実の世界から本質の世界に入っていく認識態度の根本的変更を可能にする操作を意味する。<形相的還元>とは、ある所与の事象に関する事実認識をもとに、その本質認識を獲得しようとする操作である。この操作によって当該事象の一般的で必然的な本質連関が確定される。<現象学的還元>とは、世界の存在を素朴に前提する日常的・習慣的な認識態度である自然的態度での世界定立のはたらきをエポケー<現象学的判断中止>し、同時に己の意識を、世界部的な一事象とみなす態度を忘却する操作を指す。これによって、自然的態度から超越論的態度への移行が可能になる。そして、その還元によって世界内部的という規定をはぎ取られた<純粋意識>が、現象学の対象となるものである。その純粋意識の特性は以下のものである。「反省」とは意識を主題化して回帰的に帰属する特性である。「純粋自我」とは、様々な体験は自我のものとして、その自我に属するという特性である。「現象学的時間」とは、すべての体験をそれはひとつの持続的な体験であるとする特性である。そして、<志向性>とは、「意識はつねに何かについての意識である」という意識の静態的な特性である。中期フッサールの現象学は、その純粋意識の地平における意識の本質構造である志向性に即しつつ一切の現象を解明しようとする。

論理実証主義

フレーゲ、ラッセル、ウ゛ィトゲンシュタインなどの影響を受けた哲学者、数学者、自然科学者たちのグループ。1920年代のウィーンで、科学的世界把握を目標に掲げた論理実証主義といわれる運動を始めた。シュリック、カルナップ、ノイラート、ハーンが中心となった「ウィーン学団」は、分析哲学の歴史の中で最も重要な役割を演じた。彼らによれば哲学の仕事とは意味の分析であるとされる。その思想的特徴を述べると、まず<意味の検証理論>が挙げられる。それは、命題の意味とはその検証方法である、というものである。つまり、主張には裏付けが必要であり、さらに、主張の内容は裏付けそのものである、というわけである。すなわち、有意味である命題は検証可能でなければならない。これを<検証可能性のテーゼ>という。物事には最小単位や開始点があり、それによって物事を記述することができるという経験主義的信念のもとに<還元主義>の立場をとり、アポステリオリな知識に関しては、それをわれわれの直接経験を描写する感覚与件命題に還元できる、とする。その一方で、検証不可能な命題は無意味とするので、形而上学的命題の無効を主張する。そのように、論理実証主義は、知識の究極の絶対基礎づけを不可欠のものとし、その実現を求める<基礎づけ主義>の立場にたつ。また、科学の営みはつねに先行する概念枠に基づいており、理論と経験の間にはつねにコンウ゛ェンショナルな要素が介在するとする<規約主義>の立場をとる。この立場は、独断的実証主義に対する解毒剤の役割を果たしてきたが、現在ではこのコンウ゛ェンショナルな要素の認識論上の位置づけを巡って論争が続いている。

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