12.現代のシリアス・ミュージック

12.1.テクノはポピュラー音楽ではない
山田晴通は、ポピュラー音楽の最も広義な意味を以下のように定義する。「広義に捉えるならば、「ポピュラー音楽」とは、録音や放送に代表される大量複製技術によって音楽が商品化されて以降に、もっぱら商品としての成功をねらって開発され、成立した音楽ジャンルの総称ということになる。」[東谷 編、2003:12]
だが、商品化されレコード化されるすべての音楽が「ポピュラー音楽」であるわけではない。「もちろん、いわゆる「クラシック音楽」のように、レコードやラジオの登場以前に様式が確立され、社会的に高尚なものと認知されてきた音楽も、大量複製技術のシステムに組み込まれ、商品化されてきた。しかし、「クラシック音楽」の枠組みに位置づけられた音楽は、その社会的な機能や、商品としての正確にもかかわらず、すでに「クラシック音楽」(あるいは「真剣な音楽serious music」「芸術音楽」)としての評価システムが、言説においても、社会制度においても確立されているため、「ポピュラー音楽」とは一線を画して扱われることになった。」[同:13]また、「クラシック音楽」と同様に、大量複製技術の普及以降に確立されたジャンルの音楽でも、大量生産を指向せず少数エリートを対象とするような「現代音楽」や「実験音楽」といわれるジャンルも「ポピュラー音楽」とは言えない。それらは、商品としての価値とは別に、その音楽を評価する独自の言説空間や再生産機構が存在するからである。しかし、「クラシック音楽」や「現代音楽」でもコマーシャルな商品として流通することもある。「ポピュラー音楽」とそれ以外を分かつ境界は、きわめて怪しげな、便宜的なものである、という側面もある。[同:14]
テクノでも商品として音楽が生産され、ときには大量に複製されることもある。そういったポピュラー音楽としの側面もあるし、気散じの音楽として消費することも可能である。テクノは、階級的な原理をもつ音楽とカルチャーではないという意味で「大衆音楽」であるが、不特定多数に向けられた音楽ではないという意味では「大衆音楽」ではない。強い専門性や様式性を有している「イデオロギーの音楽」であり、それはクラブでのイリンクスと至高性の体験の現出に奉仕する。そういった音楽や独特のDJカルチャー、ダンス・カルチャーによって構成されるテクノというジャンルは、独自の音楽シーンや言説空間、生産システムというものを形成している。テクノはポピュラー音楽ではない。
アドルノは、音楽産業群が「マス文化」として配給するポピュラー音楽は聴き手に何ら努力を求めない音楽であり、「散漫な聴取」をはびこられるとした。たとえば、退化した聴衆は、例えば、楽曲全体の把握をしようとするのではなく、メロディーの最も分かりやすい断片を集めて何度も聴く「断片的聴取」を行う。そういった消極的な音楽聴取の「二つの類型」が「疎外された孤独な聴取」と「群衆にのみこまれたダンス」である。アドルノにとって、ジッターバグ(ジルバ)のようなダンスは、派手で馬鹿げた、儀式ばった強制的な物まね行為である。ジッターバグを踊る群衆は、まるで我を忘れた昆虫のようにぶんぶん飛び回って踊るうちに、自分たちの個人的人格を失っていく。このアドルノのダンスに対する批判は、音楽批評におけるロックンロールやディスコやテクノとそれに付随するダンスへの批判の論拠として受け継がれていく。[ニーガス、2004:35-37]
また、アドルノは、クラシック・ミュージックが、商品や流行または伝記的知識として消費され、「クラシック」(古典)と名付けられることを批判し、「芸術作品」として創作され享受されるべき「真剣な・深刻な音楽」である本来のクラシック・ミュージックのあり方を、「本格音楽」や「純音楽」という訳語で日本語に翻訳される「シリアス・ミュージック」という言葉で表現している。[アドルノ、1998:18-19]
テクノのパーティーでは、クラバーはある種の徹底的なグルーヴの「断片的聴取」を行い、群衆に飲み込まれながら我を忘れ、同時に孤独を経験する。だが、そこでの“ダンス”は全心身をつかった積極的な能動的聴取である。そして、限界的な「真面目な遊び」と至高性の中で享受されるテクノは、現代の「シリアス・ミュージック」だとは言えないだろうか?
また、ポップスやロックに見られるようなミュージックシャンのパーソナリティやパフォーマンスやファッション等の個性がパッケージングされたポピュラー音楽の作品形態や商品形態、クラシックのような作曲者の明記されたキャノン(正典)としての「音楽作品」というあり方は、全人類史のなかでわずかな歴史しか持たない特殊な形態である。ロラン・バルトは、「作者の死」において、このように述べている。「土俗的な社会では、物語は、決して個人ではなく、シャーマンや語り部という仲介者によって引き受けられ、ひつようとあれば彼の<言語運用>(つまり、物語のコードの制御)が称讃されることは決してなかった。作者というのは、おそらくわれわれの社会によって生みだされた近代の登場人物である。」[バルト、1979:80]匿名的な楽曲の存在、コードを制御しクラバーとともにコンテクストの変化のダイナミズムをつくりだすことに参加するDJ。テクノは、古代の儀礼で行われていたようなプリミティブな本来の音楽の形態に近いものなのではないだろうか。
テクノという音楽では、クラブでその音楽の「いいノリ」が体験できることが第一義とされる。曲がレコードやCDにおいて自律的であるよりも、DJがプレイする時に自律性や自己完結性が付与されることを想定して楽曲が制作される。匿名的なトラックやアンセムは、クラブというパフォーマンス空間においてアウラを現出させるなら、独自の言説空間の中で特異なエクリチュールを持つその楽曲や音盤は歴史性や時代を超えた普遍的な価値をもつ。
その言説空間やエクリチュールの存立、楽曲や音盤の価値を生み出しているのは、アーティストやDJ、クラバー、クラブという実践空間とアソシエーション、レーベル、レコード、レコード店、情報メディアといったものの関係性である。
見田宗介は、情報化/消費化社会のシステムの環境問題や資源問題などの不可避の不幸と限界を「自由な社会」という理念を手放さずに乗り越える方法について考察している。
現代の消費社会は、情報化を媒介として欲望を自由に創出することをとおして、「需要の無限空間」をつくりだしていることによって成り立っている。だが、情報化/消費化社会のシステムは資源問題や環境問題、貧困問題、格差問題といったかたちで限界に直面している。こういった限界を乗り越えるため方途となるのは、人間の原的な欲望や奢侈性を「美としての情報」に解放することである。歌や笑い性や遊びの諸形式、他者や自然との直接の交歓やや享受のエクスタシーは、「他の何ものの手段でもなく、それ自体として生の歓びであるもの」だが、自然や他社会からの収奪を必要しない。また、絵画や詩といったものの体験には、キャンバスの大きさやパルプ材の質といった、物質的な要素は直接には無関係である。マテリーは有限だが、イデーは無限であるからだ。情報を用いれば、効用に回収されることのない社会のダイナミズムとしての消尽をほとんど物質的な消費なしに行うことができる。情報によって、自己目的的に幸福の形態として、消費のシステムに、資源収奪的でなく、他社会収奪的でない仕方で、幸福の無限空間を開くことが可能である。情報化のコンセプトが切り開く地平によって、人間の欲望の感受の能力の可塑性と自由を基軸として、消費のコンセプトを自然収奪的ではない他者収奪的ではないような生存の美学に転回することが、情報化/消費化社会の矛盾や拘束から私たちを自由にしてくれる[見田、1996:122-171]
テクノのパーティーでは、DJは複製品であるレコードという記号の組み合わせによって、美としての情報量を増殖させている。ハードウェアを消費せずに、コンテンツの組み合わせで価値を創出している。それは、消費社会における欲望による物質的な消費に対する、エレクトリックな情報の地平が生み出す無限大のアルゴリズムの空間でのエクスタシーや至高性の体験だある。それは、「デジタルなサクリファイス」である。消費化/情報化社会の矛盾や拘束を乗り越えていくものとしての可能性がテクノという“音楽”とそのパーティーにはあるのではないか。
12.2.「テクノ」の終焉!?
しかし、テクノ・シーンのようなサブ・カルチャー一般が持つ内向性や欺瞞を批判する議論もある。毛利嘉孝は、そういったサブ・カルチャーのもつ性格を既存の権威を批判することによって自らの立場を獲得する「サブカルチャー・エリート主義」だとしている。サブカルチャー・エリート主義は、ヒット・チャートの音楽を完全に商品化された資本主義の残骸として完全に否定しながら、マイナーなものや難解で実験的なものに内向する。そういったものの内部には、資本主義に汚されない無垢な領域があると信じるからである。その希少な領域は、特別なサブカルチャー・エリートだけが理解できるものであると当人たちは主張し、そこにはサブカルチャー・エリート特有の趣味のヒロイズムとマッチョなヒロイズムが入り込んでいる。[毛利、2007:97-98]
また、アドルノは、内向的で欺瞞に満ちた新奇性のない「静的な聴取」を行う、本質的に反動的な人々を「ルサンチマン型聴取者」だとした。この人たちは、軽音楽に見られるような一般的で惰性的な聴取者を軽蔑しながら、すべてを物象化し商品化する現代社会から逃れるために、ノスタルジーへ逃避する。積極的に音楽は摂取されるが、実は反動的世界観と結合し、そのあり方は歪んでいる。このタイプの聴取者の意識は、反動的なイデオロギーを信奉する自らが設定した諸目的や歴史主義によってあらかじめ設定されている。ルサンチマン型聴取者は、誤った厳格さに囚われている。この厳格さは自分の集団内で保護されるという名目で自己の衝動が機械的に抑圧されるためにさらに助長される。そして、画一的なイデオロギーがニュアンスに対する感覚の成長を止めてしまっている。[アドルノ、1999:33-36]
また、フレデリック・ジェイムソンは、後期資本主義や消費型資本主義の時代におけるポストモダニズムのそういったシニシズム的特徴のひとつを「パスティシュ」だとしている。パスティッシュもパロディも芸術的営為の根源である模倣を含んでいる。モダニズムの時代に見られるパロディには、原作のスタイルの独自性を利用し、性質や奇妙さを上手くとられて、原作を嘲笑するような模作を産出する。そのパロディのためには偉大なモダニストへのいくらかの共感が必要であり、また、その参照のためには言語的な規範が存在するという気分がなくてはならない。しかし、ポストモダニズムにおいては、そういった言語的規範は存在せず、表現は個人的で断片的なものになり、スタイルの多様性と異質性しか残されていない。パスティッシュは、諧謔的な刺激や嘲笑がなく、「ノーマルなもの」を想定しない、無表情なパロディ、ユーモアのセンスを失ったパロディである。現代では、すべての表現は発明し尽くされて、残っているのは、限られた範囲の記号での組み合わせでしかない。スタイルの確信が不可能になってしまった世界では、死せるスタイルを真似ることしかできない。芸術や美的なものは失敗せざるをえず、新しいものは成功せず、過去に幽閉される。[フォスター編、1987:203-208]
テクノ・シーンにはデトロイト・テクノの純粋性やブッラクネスに依拠したサブカルチャー・エリート主義の側面が確かにある。ヒット・チャートの音楽を生理的に拒否しながら、ユートピア的な空間に入り込んでいる。外部からは非常に内向的で難渋なものを愛でているように見えるかもしれない。だが、テクノの本質は博愛主義的なサウンドの快楽である。テクノには、「サブカルチャー・エリート主義」に陥ってしまうのような難解性や内向性はない。テクノ・シーンは、決してメジャーでないが、メジャーな文化産業や既存の権威を否定し闘争するようなアンダーグラウンド性があるわけではない。テクノ・カルチャーにはロック的な反骨精神やスタイル、それによって形成されるパーソナリティの様なものがない。テクノ・シーンはアンダーグラウンドでもメジャーでもないものとしてある。難解で実験的なものに固執して内に籠ってはいるわけではない。そして、そこで用いられるテクノ・トラックは、世界中で流通する普遍的言語であり、高度な“音楽性”と過激な実験性、グルーヴと同時にシンプリシティや普遍性を備えていると思われる。
かつてのディスコ・ミュージックはロック志向の強いポピュラー音楽の批評家から不当に低評価をされた虐げられた音楽だった。テクノは元々、とてもアンダーグラウンドでインディペンデントな場所から生まれてきた。だが、ハウスを経由してディスコ・ミュージックの子孫だとも言えるテクノは、現在、音楽学者や音楽社会学者によって、ポジティブな評価がなされ、サブ・カルチャーにおける新たなヘゲモニーや正当性、真正性を握ろうとしている。テクノ・シーンが、そこに安住してはいないだろうか?DJやクラバーはイデオロギーが与えてくれる正当性に酔いしれ、「サブカルチャー・エリート主義」に陥ってはいないだろうか?
テクノ・シーンにおいては、様々なテクノロジーによってDJプレイは常に進化し、パーティーの平均的なクオリティーも上がり非常に洗練されたものになっている。だが、ここ数年、その“音楽”は本質的な進歩をしていないようにも思える。また、現在でも20年以上前の楽曲が用いられ、怠惰な再解釈や模倣を繰り返してだけであるという指摘もできる。テクノがアクチュアリーな音楽であり続けるのか、現在のジャズのようなパスティッシュとノスタルジーの中に埋没してしまうのか、テクノは現在、その分水嶺に立たされている。

□参考文献・資料一覧
・文献
『不協和音』テオドール・アドルノ(平凡社ライブラリー、1998)
『音楽社会学序説』テオドール・アドルノ(平凡社ライブラリー、1999)
『記号論への招待』池上義彦(岩波新書、1984)
『記号の知/メディアの知』石田英敬(東京大学出版会、2003)
『<身>の構造』市川浩(講談社学術文庫、1993)
『電子美術論』伊藤俊治(NTT出版、1999)
『あの日、ディスコが教えてくれたこと』印南敦史(光文社、2004)
『スポーツ文化を学ぶ人のために』井上俊・亀山佳明(世界思想社、1999)
『アーバン・トライバル・スタディーズ』上野俊哉(月曜社、2005)
『蒐集』ジョン・エルスナー、ロジャー・カーディナル編(研究社、1998)
『音と音楽の基礎知識』大蔵康義(国書刊行会、1999)
『やさしさの精神病理』大平健(岩波新書、1995)
『古本でお散歩』岡崎武志(ちくま文庫、2001)
『音楽する社会』小川博司(勁草書房、1988)
『DJ選曲術』沖野修也(リットーミュージック、2005)
『若者の法則』香山リカ(岩波新書、2002)
『ポスト・テクノ(ロジー)ミュージック』久保田晃弘(大村書店、2001)
『若者たちの変貌』小谷敏(世界思想社、1998)
『エロス身体論』小浜逸郎(平凡社新書、2004)
『「負けた」教の信者たち』斎藤環(中公新書ラクレ、2005)
『アクティブ・マインドー人は動きの中で考える』佐伯・佐々木正人 編(東京大学出版会、1990)
『イギリス「族」物語』ジョン・サベージ(毎日新聞社、1999)
『増補 シミュレーショニズム』椹木野衣(ちくま学芸文庫、2001)
『書物の秩序』ロジェ・シャルチエ(ちくま学芸文庫、1996)
『バルトーテクストの快楽』鈴木和成(講談社、1996)
『DJバカ一代』高橋透(リットーミュージック、1999)
『檻のなかのダンス』鶴見済(太田出版、1998)
『「個性」を煽られる子どもたち』土井隆義(岩波書店、2004)
『ポピュラー音楽へのまなざし』東谷護(勁草書房、2003)
『子どもたちのサブカルチャー大研究』中西新太郎(労働旬報社、1997)
『ポピュラー音楽理論入門』キース・ニーガス(水声社、2004)
『日経パソコン新語辞典 98年版』日経パソコン編(日経BP社、1997)
『青年文化の聖・俗・遊』藤村正之・高橋勇悦(恒星社厚生閣、1990)
『レコードの美学』細川周平(勁草書房、1990)
『宗教の理論』ジョルジュ・バタイユ(ちくま学芸文庫、2002)
『テクストの快楽』ロラン・バルト(みすず書房、1977)
『物語の構造分析』ロラン・バルト(みすず書房、1979)
『反美学』ハル・フォスター編(勁草書房、1987)
『精神現象学』G.W.F.ヘーゲル(作品社、1998)
『暗黙知の次元 言語から非言語へ』マイケル・ポラニー(紀伊国屋書店、1980)
『その音楽の<作者>とは誰か』増田聡(みすず書房、2005)
『音楽未来形』増田聡・谷口文和(洋泉社、2005)
『「消費不況」の謎を解く』松原隆一郎(ダイアモンド社、2001)
『クラブ・ミュージックの文化誌』三田格 他(JICC出版局、1993)
『現代社会の理論』見田宗介(1996、岩波新書)
『メディアと芸術』三井秀樹(2002、集英社新書)
『終わりなき日常を生きろ』宮台真司(ちくま文庫、1998)
『増補 サブ・カルチャー神話解体』宮台真司・石原英樹・大塚明子(ちくま文庫、2007)
『社会学と人類学(2)』マルセル・モース(引文堂、1973)
『ポピュラー音楽と資本主義』毛利嘉孝(せりか書房、2007)
『クラブカルチャー!』湯山玲子(毎日新聞社、2005)
『野生の思考』クロード・レヴィ=ストロース(みすず書房、1976)
『場所の現象学』エドワード・レルフ(ちくま学芸文庫、1999)
『悲鳴をあげる身体』鷲田清一(PHP新書、1998)
『働かない身体』鷲田小彌太(彩流社、2005)
『バルト 距離への情熱』渡辺諒(2007、白水社)
『キーボード・マガジン別冊シンセサイザー・プログラミング』(リットーミュージック、1998)
『GROOVE』AUTUMN 2004(リットーミュージック、2004)
『GROOVE』SPRING 2005(リットーミュージック、2005)
『GROOVE』SUMMER 2005(リットーミュージック、2005)
『GROOVE』SPRING 2006(リットーミュージック、2006)
『GROOVE』SUMMER 2006(リットーミュージック、2006)
『GROOVE』SPRING 2007(リットーミュージック、2007)
『GROOVE』SUMMER 2007(リットーミュージック、2007)
『GROOVE』AUTUMN 2007(リットーミュージック、2007)
『GROOVE』WINTER 2007(リットーミュージック、2007)
『サウンド&レコーディング・マガジン』1999年2月号(リットーミュージック、1999)
『サウンド&レコーディング・マガジン』1999年5月号(リットーミュージック、1999)
『サウンド&レコーディング・マガジン』2000年9月号(リットーミュージック、2000)
『サウンド&レコーディング・マガジン』2005年9月号(リットーミュージック、2005)
『remix』2006年10月号(アウトバーン、2006)
『relax』1997年9月号(マガジンハウス、1997)
『relax』1998年1月号(マガジンハウス、1998)
・CDライナーノーツ
『EASY FILTERS』FLR (サブライムレコーズ、2003)
・DVD
『EXHIBITIONIST』ジェフ・ミルズ(AXIS、2004)