第一章 共通感覚の再発見
私たちは生きている限り何かをつくり、表現しなければならない。そのためには知識や理論や経験が無ければないが、それらはただ独立したものではなく、日常経験と結びついたものでなければならない。一方で、それは共通性と安定性をもつ<常識>として固定されている。その常識の自明性やわかりきったこととしての性質が問い直されなければならない。
ここで要求されるのは、総合的で全体的な把握であり理論化される以前の総合的な知覚である。常識とは<コモン・センス>であり、総合的な全体的な感得力(センス)という側面がある。現在では、コモン・センスは社会的な常識、人々が共通(コモン)に持つまっとうな判断力(センス)という意味で用いられている。しかし、コモン・センスとは、本来は、諸感覚(センス)に渡って共通(コモン)でそれらを統合する感覚、五感にわたってそれらを統合して働く総合的で全体的な感得力(センス)、つまり<共通感覚>なのである。
社会的にまっとうな共通した判断力として常識は18世紀のUKで使われ一般化したものであり、そのルーツはキケロなど古代ローマの思想まで遡ることができる。
共通感覚の淵源はアリストテレスのsensus communisにあり、それは感覚のすべての領域を統一的にとられる根源的な感覚能力である。また、共通感覚により、「甘い香り」「甘い音色」「甘い考え」などのような表現ができる。そして、私は共通感覚によって単一の知覚では感覚できない運動、形、数などを知覚でき、想像力は共通感覚のパトスを再現する働きであり、共通感覚は感性と理性を結びつけるものである。
通常は外在化した常識の基礎として内在する共通感覚は想定されるが、私は共通感覚を中心に表立てて、社会的常識をその中に含ませたい。常識は「曖昧さを含んだ日常の知」とも「学問的知よりも洞察力を含んだ知」ともとれる。私はそれを「出発点としての常識」と「到達点としての常識」として区別してきた。それらを共通感覚として考え直すなら、日常の様々な物事を捉えるだけでなく、それらを存在させる地平そのもの、自明性を形づくっているものの把握をするものとして常識を捉えることができる。また、この共通感覚と常識は自明ではないもの、あたりまえではないもののを覆い隠している。しかし、時に、共通感覚によって自明ではないもの、普通ではないものが浮びあがることがある。
戸坂潤は、常識(真っ当な判断力)が欺瞞的なものになっているとしながらも、その積極的な批判力を回復させようとした。常識は非科学的、非哲学的、非文学的な消極的・否定的な知識である、一方で、ノーマルで実際的で健全な実態の知識でもある。その矛盾は常識の曖昧さであるが、それとともに常識の開かれた可能性でもある。
戸坂は<内容としての常識>と<水準としての常識>の区別を立てる必要があるとした。水準としての常識とは、知識の総和を平均した単なる「知識水準」ではなく、独自なノルム(規準)であり、健康でノーマルであること健全であることが理想的で優れたことであるように、標準的であり理想的なものとしての規準である。このノーマル(ノルム的、標尺的)であるものが人々の自己を高める動的端緒(イニシエーション)として現れる。真の常識とは目標あるいは水準としての常識である。
<社会通念としての常識>は社会生活の基礎としてなければならないが、それは安定して繰り返されるために、固定化され惰性化され、多様な現実に対応できなくなる。この常識は共通感覚による五感の統合の仕方が問い直され、組み換えられて<豊かな知恵としての常識>によって打ち破られなければならない。その二つは弁証法的関係を形づくっている。
ジャンバッティスタ・ヴィーコは科学が真実の上に成り立っているように、コモン・センスは蓋然的な真実の上に成り立っている、と言った。蓋然的な真実に対するわれわれの感覚は、真理の不十分な認識ではなくて、もっと広範囲で根底的なものである。科学的な正しさや真実の方がコモン・センスの上に成り立っている。コモン・センスの本質は科学的な知識からみる物事の在り様に加えて周囲の事情に照らして判断を行うことである。
アリストテレスが<共通感覚>と名づけた感受性は、人間と世界とを根源的に繋ぎ、世界を現前させる働きを持つ。これが欠ける時、世界は単なる「感覚刺激の束」としてのカオスでしかない。共通感覚は積極的に現勢的に世界を構成する<構想の能力>である。
マルクスは感性と五感のそれぞれの作用と感覚は歴史的に形成され変化してきたものだとした。歴史の中で五感の秩序は組み替えられてきた。ルソーはコモン・センスは「個々の諸感覚のよく規整された使用」によって生まれるとした。それは、諸感覚の伝える事物の内容を相互に結びつけることによって事物の本性を教えてくる<第六感>と呼ぶべきものである。現在、マクルーハンのいうように、知覚世界の人工化とコミュニケーション・メディアの発達によって「感覚麻痺」と「感覚閉鎖」の問題が起こっている。それは、例えばテレビによる視覚の優位などである。
終章
現代の自明性の危機の時代において、感覚の次元からの知の組み替えが要求されている。主体的・主語的な感覚統合である視覚的統合優位の時代に対して、諸感覚の基体的・述語的統合である<体性感覚>的統合に大きな展望がある。
|
商品詳細
共通感覚論
中村雄二郎
岩波書店、東京、2000年1月14日
398ページ、1540円
ISBN 978-4006000011
目次
- はじめに
- 第一章 共通感覚の発見
- 第二章 視覚の神話をこえて
- 第三章 共通感覚と言語
- 第四章 記憶・時間・場所(トポス)
- 終章
- 注
- 現代選書版あとがき
- 現代文庫版によせて
- 解説 私事と共通感覚 木村敏
- 索引
関連記事
哲学・現代思想 初心者初学者に推薦する入門書と哲学史・哲学的思考ブックリスト