ブックレビュー「ドライブ・マイ・カー」『女のいない男たち』より 村上春樹(文藝春秋、2014)

この物語は、精神的心理的な活動としての運転、普遍的活動としての演技、男性と女性の違いについての物語です。その内容は、ビートルズの歌「ドライブ・マイ・カー」とは直接は関係がありません。しかし、「彼女は言った「ベイビー、私は有名な映画スターになりたいの。その間にあなたにもできることがある。」」そして「ベイビー、私の車を運転してよ。そしたら、私はスターになれる。」 (と女の子が男の子に言っている。)という歌詞から考えて、このタイトルは、家福に対してのアイロニーであるかもしれません。

この物語は、自動車という機械の物語です。しかし、自動車は単なる機械であるだけでなく、その運転には人の心や感性、特性、個性が反映されます。この小説で車を運転することは、心理的および精神的な活動です。それは、楽器を演奏するようなものであり、環境や世界とコミュニケーションし、自己を反省し、精神的な治癒と等しい行為です。そして、それは楽しくてリフレッシュできる行為である一方で、危険で他人や自分自身を傷つけ、生命を脅かす行為でもあります。

また、この物語は役者と演技の物語です。演技も心理的および精神的な活動です。家福は演技で何者かになれることが楽しいと言い、みんな演技をしているとも言いました。そして「職業としての小説家」で村上さんは小説を書くことで何者かになれると書いています。この小説において、俳優という職業は現代人のシンボルだと思います。俳優は他の人によって作られた役割を演じます。私たちは皆、何らかの社会的役割を演じますが、その役割によって、ある人たちは本当の自分を見失います。現代社会の避けられないエッセンシャルな問題です。

冒頭の家福のモノローグは、女性は活動中に意識と行動、心と体を分離できないことを示唆しています。彼は、女性の運転に一種の緊張感を見出しました。そして、一方で、女性は演技において本当に役を演じることができます。そのため、彼の妻である女優は自分自身を離れて演技することができず、なぜか共演した俳優たちと寝ることになります。

無粋で男らしい女性であり、アメリカの男らしさの象徴であるマールボロのタバコ好んで吸う渡利みさきは、男女の違いを越えた存在です。日本語でワタリは「渡る」または「乗り越える」を意味し、みさきは「岬」を意味します。男と女の岬を行き来し、一個人として自然に男と会話し、男と女それぞれの心を理解できます。彼女は家福を助手席に乗せ彼の車を運転し、彼や彼女の過去について話すことで彼の心を癒す手助けをしました。

そして、この小説は村上春樹さん自身の物語を書くことと女性に対する考察と思考の表現でもあります。運転と演技は、その操作と変化、移動を楽しむ活動です。そして、どちらも小説を書くことの部分的なメタファーだと思います。演技とは、他人の物語を解釈し、トレースする活動です。「職業としての小説家」の中で村上さんは小説を書くことは、適切なヴィークルや容器に乗ったり内容を埋めたりすることだと書いています。(この長い短編小説は、スモール・ミディアム・サイズのヴィークルです。)村上さんは小説を書くことと等しい二つの行為において、男性と女性の心の違いを描写しました。これらの物語にコミットする活動では、男性と女性の状態が異なって現れ、男性は女性の心の状態の核心とその理由とメカニズムを理解することができません。

この短編小説を通して、村上さんは車の運転と演技を描くことを通して、自身が考える女性の不思議さを表現することに成功しました。

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商品詳細

女のいない男たち
村上春樹
文藝春秋、東京、2016年10月7日
300ページ、748円
ISBN 978-4167907082
目次

  • まえがき
  • ドライブ・マイ・カー
  • イエスタデイ
  • 独立器官
  • シェエラザード
  • 木野
  • 女のいない男たち

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