■『「空気」の研究』山本七平(文春文庫)
「空気の研究」では、日本の明晰な論理的判断ではない絶対権威や同調圧力による意思決定方法である「空気」を日本海軍の無謀な大和出撃、公害問題の言説、西南戦争の報道、「空気の支配」を「ないこと」にした福沢諭吉的明治啓蒙主義の誤ち、戦前戦後の天皇観の変化、言葉や言霊を絶対化しないユダヤ教・キリスト教との比較、日本での民主的多数決原理の問題などを取り上げて分析する。
「空気」とは何であろうか。それは非常に強固でほぼ絶対的な支配力をもつ「判断の基準」であり、それに抵抗するものを異端として、「抗空気罪」で社会的に葬るほどの力をもつ超能力であることは明らかである。(中略)だが通常この基準は口にされない。それは当然であり、論理の積み重ねで説明することができないから「空気」と呼ばれているのだから。従ってわれわれは常に、論理的判断の基準と、空気的判断の基準という、一種の二重基準(ダブル・スタンダード)のもとに生きているわけである、 (p.22)
“KUKI”とは、プネウマ、ルーア、またはアニマに相当するものといえば、ほぼ理解されるのではないかと思う。(p.56)
(プネウマやアニマの)原意は「風・空気」だが、古代人はこれを息・呼吸・気・精・人のたましい・非物質的存在・精神的対象等の意味にも使った。(中略)“空気”のように人びとを拘束してしまう、目に見えぬ何らかの「力」乃至は「呪縛」いわば「人格的な能力を持って人びとを支配してしまうが、その実体が風のように捉えがたいもの」の意味にも使われている。(p.57)
山本氏が言っている「空気」とは、メディアやオーソリティーが発したありきたりなよき(悪き)言葉やイメージのエクリチュールやディスクールに酔って絶対化し再生産・定着してしまう日本人の習性のあり方。また、日本人に共有された非論理的・非科学的で集合的・集団同調的な精神論・根性論やそれらを基底にしそれらを否定することができない理性やコモン・センスと対立する常識(common knowledge)的感覚や思考だと私は思う。精神論とコモン・ノレッジ、形式的思考、マニュアル的思考、事実、現実、知識や情報、それらがそれぞれ整合性のない調和しないかたち、あるいは間違った結びつき方の接続で物事の思考・判断がなされることが日常生活から国家運営まで日本人の大きな問題の一つであると私は考える。
「「水=通常性」の研究」では、「空気に水を差す」の「水」つまり通常性でさえ、日本では聖書の規範やマルクスの必然とは違った日本的情況倫理であり規範には成りえず、全ては相対的な総情況倫理・一億総情況倫理であり「空気」の支配を打ち破るものでなく、間違った過剰な平等主義を生み出し、「虚構の支配機構」を継続させ、むしろ「自由」の拡大に水を差す、自由や情況を拘束するものとなっていることを言説分析する。
「日本的根本主義について」では、日本のファンダメンタリズムは、一神教の神やドグマの絶対化と対立する、ある権威に対する行き過ぎた平等主義に基づく倫理主義、あるいは「家族的相互主義に基づく自己および自己所属集団の絶対化」だとする。それによって、日本人の言論空間は、様々な通常性と解体された体系的思想が混ざったものになっていて、それが表出する言葉は相矛盾するものが平然と併存されている状態になっていると著者は批判する。
目次
「空気」の研究/「水=通常性」の研究/日本的根本主義について/あとがき/解説 日下公人
■『「常識」の研究』山本七平(文春文庫)
『「空気」の研究』のケーススタディ版という様な内容。日本における「常識」の原理的問題には詳しく述べられてはいない。
■『日本人の人生観』山本七平(講談社学術文庫)
「日本人の人生観」では、それを日本人の「自然」概念が一つの完成された内的な秩序意識であり、出来事の成果が「作為(する)」のではなく自然に「化為(なる)」のがよいとする「宗教的な意識」から生じるものだとしている。日本人が社会は安定した自然=「完成した秩序」だと考え、「自然に自然に順応する」からこそ様々な体制の変化をスムーズ受け入れてきたと著者は考える。そこでは、体系的イデオロギーは本心では受け入れられず、個人は伝統的思考による「自然」な楽な生き方をしようとする。そして、著者は、社会は自然の様に動かないものなので安定した個人の人生に対して歴史は影響を与えないと考える日本人の歴史意識の問題、内実は変わらない外圧に対する表面な対応の仕方、伝統的思考を重視し「歴史の区切り」を見ようとせず未来を予測できない日本人の思考様式を批判する。
この考え方・見方がどこから出てきたかということは、たいへんむずかしい宗教史的な問題になりますが、一つは、われわれが持っている自然という概念であります。われわれの使う自然という言葉はたいへんに複雑な言葉でありまして、ヨーロッパ人のいう自然という言葉と似たように見えますが、きわめて意味の違う面があります。(中略)これはわれわれが持っている「自然」が一つの内的な秩序の意識であることを示しています。(p.28)
「ごく自然に……」といった返事が返ってくることがありますが、これも「化為(なる)」であって「作為(する)」ではない、そしてこれが最良の状態だという発想でしょう。そしてこの秩序は絶対であってこれが動くことはないという、こういう非常に不思議な信仰をみんな知らず知らずのうちに持っております。(p.29)
「「さまよえる」日本人」は、歴史意識や宗教意識を持たず、目標がなく誰も内発的な目標やスローガンを与えてくれないかたちでただ「さまよって」(「目標を失っても静止し得ない状態」(p.80))いる日本人のあり方を批判する。
「日本人の宗教意識」は、日本人にとって宗教は「家」の問題であり、個人意識が存在せず個人の問題としての宗教が存在しないことによって多くの日本人が無宗教であることを明らかにする。そして、核家族化によって企業が「家の宗教」として「企業神・組織神」となっていること、複数の宗教の思想やメリットを受け入れられること、それらは秩序を自明の「自然的・人間的秩序」として信仰する日本人の宗教意識と合致するものだと述べる。
(日本人の「宗教性」が一神教の見方を基礎とした)「宗教学」の定義にかなう「宗教」かどうか、それは明らかではない。というのは、それは自然信仰・現実是認・集団主義(または家族主義)的信仰心の絶対化と言うべき宗教性と思えるからである。(p.101)
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日本人の人生観/「さまよえる」日本人/日本人の宗教意識/文化としての元号考察/あとがき
■『醜い日本の私』中島義道(角川文庫)
ウィーンでの留学・多くの滞在経験のあるカント哲学者の筆者が日本における派手な広告や電線だらけの街の景観、騒音や無意味なアナウンスへの鈍感さ、奴隷的だが一方的で機械的でお節介な過剰サーヴィス、商業施設などでの定型化された表層だけの言葉や振る舞いと深層演技に基づいた自己防衛で固められたコミュニケーション、「形だけ主義」と関係する「善意を期待する主義」とよきことの押しつけといった現代日本文化の問題を筆者の経験と感性を基に解剖し原理的な日本人の美意識や規範様式、思考様式の問題として痛烈に批判する。そういった問題の背景には、どの欲望を規制するかという原理がなく人間の行為を「自然」だとみなす「欲望自然主義」、日本人の「副詞的自然」の思考と醜悪なものを見ないことができる「精神主義」、ハイ・コンテクスト・カルチャーによる「言葉を信じない文化」とその「形だけ主義」、正しさや本意よりも対立を避けることを優先し語りたいことと語るべきことが渾然一体となった「特殊日本的嘘」などがある。そういった日本人の精神構造や美意識が、感性のマイノリティの迷惑切り捨てや、マジョリティの感覚から僅かにズレた他者を差別することになる「共感」をかたち作っている。そして、筆者は自分の感受性を「治さ」ないために戦い続けるが、同じマイノリティのために感受性の「共生」と感受性の多様性の教育の必要性を訴える。
それは、言葉を信じない文化であるから、言葉を駆使して、弁解することを嫌い、言葉を駆使して批判するこのを嫌う。(中略)だがさまざまな意味で報われていない人にとっては、弁解を聞いてくれないのだから、言葉を駆使して説明することを嫌がるのだから、現状に対して不平をもつことを基本的に醜いこととするのだから、批判することを悪とするのだから、じつに過酷な社会である。(p.111 – 112)
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ゴミ溜めのような街/欲望自然主義/奴隷的サービス/言葉を信じない文化/醜と不快の哲学/あとがき/解説 松原隆一郎
■『増補改訂 日本の無思想』加藤典洋(平凡社ライブラリー)
政治家の前言撤回から大日本帝国憲法、日本人の宗教観や公共性の考え方などの言説分析を通して、「タテマエとホンネ」という日本人独特の思考様式のウラにある自己欺瞞を暴く。
タテマエとホンネという考え方の底にあるのは、この「どっちだっていいや」というニヒリズムだ、ということなのです。(p.62)
このような相補的、かつ相対的な関係構造の中におかれ、無限に両者が「入れ替わり」可能になり、「ともに真である」というのは、この双方が真じゃない、ということなんですね。それが「真」だと信じられているとしたら、そこには「真」に対するとてつもないニヒリズムがあるのです。(同)
■『無思想の発見』養老孟司(ちくま新書)
「日本人の私たちに哲学や思想なんてない」という認識から出発して、その「無思想の思想」をストロングポイントとしてどう生きていけばいいかを示す。
そういう世間で、ある考え方を主張すると、私が日本人であるかぎり、基本的には無視される。なぜなら、私が日本人だということは世間に属しているということで、世間に属しているということは、「世間という思想」を暗黙に保持するということだからである。その世間の思想とは「思想なんてない」というものだから、私の考えが思想に近ければ近いほど、無視されるという結論になる。世間の思考にいささかなりとも反する思想を持つことは許されないからである。ただし「借り物」なら許される。(p.94)
■『バカざんまい』中川淳一郎(新潮新書)
日本のテレビとネット、それらに影響を受けたリアルに溢れる「バカ現象」を筆者が痛快に切りまくる。
日本で英語は過度な扱いを受けている。「英語ができなくて何が悪い」とキレられたり、英語ができる人が妙に持ち上げられたり。とにかく英語コンプレックスが強すぎるのだ。(p.207)
■『「おもてなし」という残酷社会: 過剰・感情労働とどう向き合うか』榎本博明(平凡社新書)
欧米の「自己中心の文化」とは対立する日本の「間柄の文化」をキーにして、「お客様は神様」だとする過剰な感情労働の問題、社内でのコミュニケーションの過剰な抑圧性を分析し、それらのストレスに対処する方法や習慣を提示する。
一方、「間柄の文化」というのは、一方的な自己主張で人を困らせたり嫌な思いをさせたりしてはいけない、ある事柄を持ち出すか持ち出さないかは相手の気持ちや立場を配慮して判断すべき、とする文化のことである。(p.26 – 27)
■『「やさしさ」過剰社会 人を傷つけてはいけないのか』榎本博明(PHP新書)
■『「死ぬくらいなら会社辞めれば」ができない理由』汐街コナ、ゆうきゆう(あさ出版)
■『「甘え」の構造 増補普及版』土居健郎(弘文堂)
■『やさしさの精神病理』大平健(岩波新書)
■『菊と刀』ルース・ベネディクト(光文社古典新訳文庫、講談社学術文庫)