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語られざる哲学とは懺悔であり、和らぎへりくだる心のことである。それは講壇や研究室の哲学ではなく、深さと純粋を求めるわずかな人によって同情され理解されることを求める哲学である。
この試みは傲慢な心ではなく謙虚な心、つまり静けさと安けさに導く。自分の知識のなさや思考力の弱さの自覚は、私たちを善き生活への憧憬と邁進に向かわせるだろう。
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正しい問い方と正しい出発点をとることが大切である。語られざる哲学の問題は、どういう風に正しく提出されるだろうか?それは、1. いかにして良き生活は可能であるか?(形式の問題)2. よき生活はいかなるものであるか?(内容の問題)として挙げられる。私がよき生活と呼んでいるものは、正しき生活と美しき生活も含んでいる。語れる哲学の学徒は自然主義者ではなく理想主義者となる。そこでは、生活を改善しない知識や現実を支配しない理想は無意味である。真理に関する知識は生活することの中から得られる。
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現実に対して不満を感じ疑いを持つことから語られざる哲学は始まる。その懐疑説あるいは懐疑主義は、心臓で感じるものであり、単なる論理によって征服されない。それは生活上の懐疑主義である。
懐疑が否定されるのは、1. 懐疑が徹底されていない時、2. 懐疑の動機が正しくない時である。懐疑主義者の心は虚栄心や傲慢、不真面目ではなく、謙虚で真面目でなければならない。懐疑は一般的なもの古いものだけではなく、新しいもの特殊なものにも向けられ、外的なもの他律的なものを排して、純粋な内面と自律に向かう努力によって成立する。それは、精神の真面目な悩みであり、よき生活への意志を動機にしなければならない。真の懐疑は剛健な自分自身の否定も恐れない心による徹底的な全体の否定によって可能になる。
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人生あるいは実在の本質は活動にある。正しい懐疑はよき心によって行われるよので、それは絶大なる活動である。しかし、そこには傲慢な心でなく、へりくだる優しい謙虚な心がある。
悪に対しての強い心は、善に対しての優しい心になる。私は自分自身に対しての反抗により、自己を否定し破壊しつくすによって初めて他人に対して何をするべきかを知るだろう。
活動性と反抗性が私を懐疑から遠ざけている間に第三のものが私の心に生まれ、それは懐疑を取り払った。それは、永遠なるものの存在とそれによる現実の改造の確信、あるいは価値意識の存在とその経験意識の支配の信頼、もしくは自由の可能の確信である。文化的価値が自然的価値の中に現れてくる過程を歴史とするなら、それは歴史的過程の存在の確信とそれの最後の感性への絶対の信仰だとも云える。通俗的な言葉を用いるならば、それは良心と理想の存在とそれの現実の規定力の確信である。その確信によって、私は未来への希望を失うことがなくなった。私を哲学に導いたのは、永遠のものに対する憧憬、プラトンがエロスと呼んだものである。そして、私は思索生活の全体を理想主義者として過ごすだろう。
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西田先生の『善の研究』、スピノザやカントの哲学は、学問が論理的遊戯や単なる功利的実践的知識であるという私の無知な誤解を一掃した。理性とは真の自己そのものであり、永遠なるものを求める情熱の源になるものだからである。その永遠なるものへの愛によって、真に正しき形而上学的要求にもとづいた哲学的生活は成立する。
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懺悔とは、自己をしみじみと眺め、自己に対してさえ何も教えようとしない絶対に謙虚な心である。語られざる哲学は自己の無智の認識より承認される。
哲学や学問の体験が反省的な根強さも深さもいない人、哲学史の知識を得意気に語る人、科学の知識を単に実用に役立てる利口な人やただの専門学者にとどまる人には哲学がないのが事実である。哲学は知られるものでも教えられるものでもない。それはただ実際にフィロゾフィーレンする人、実際に哲学に生き哲学を生きた人にとってのみ存在する。フィロゾフィーレンする人する人にとっては論理的なものや普遍的なものこそ人生を正しく美しく生きるために必要である。イデーに生きイデーを生かそうとする生活、イデーの力に対する希望と信頼の中に哲学的生活の本質はあり、そこからしか真の哲学は誕生しない。ヘーゲルが云ったように、真理の勇気と精神の力の信仰が哲学の第一条件である。
魂の秀れた哲学者とは永遠なるものへの情熱の深き人々で、真によき宗教や哲学や道徳や芸術や学問への憧れと努力において喜びに満ち溢れつつ悩んでいる。彼らは内面に還る心、自ら真理を求めようとする心が哲学の根底において尊ぶべきものであることを知っている。
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私は芸術の懐疑と退廃と憂鬱に影響されたが、一方で私は芸術によって健康的なもの、自由なもの、生命的なものの豊かさに目覚め、やがて価値の転換と概念の改造が私の中で起こった。
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反省とは自分を知るということである。それは知的興味ではなく道徳的宗教的な要求からなされる真理の探究であり、学問の知識ではなくて、闇そのものの真理である。反省は個々の感覚、表象、感情、意志などの平面的な横の関係だけではなく立体的な縦の関係、そして内奥に潜めるものを探究する。
私の心の中にあるものは神の装いをしているが悪魔の象徴であることを発見した。魂はイデアの世界を知っているからこそ、身体は肉体の牢獄にありながらイデアの世界を憧れ求めづつけることができる。
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この論考の中の重要な問題は、 1. 語られるざる哲学の出発点は何か? 2. いかにしてよき生活は可能か? 3. よき生活とはいかなるものか? ということである。
二つ目の問題は、合理的な論理ではなく非合理において信仰によって与えられ、概念的思惟ではなく実際によき生活を送ることによって、回答が得られると私は考える。だが、よき生活を可能にする必然的制約は、 1. 永遠なる価値の存在、 2. 完成の可能性、とこの二つに関係し安定を与える 3. 絶対者の存在であると私は信じる。
完成の可能の希望がなければ、よき生活は不可能である。私たちの魂が最後の完成に至ることができないならば、私たちの活動や生活は全く意義を失ってしまう。永遠なる価値を求める文化的生活は、長い過程を経たとしても自然的生活を征服するか内抱しなければならない。生活への意志は最後には文化的生活への意志に転生されなければならない。自然を駆逐して包摂してその領域を広げていく文化の歴史は文化の絶対支配の到達を可能にさせるものでなければならない。自由の完成、救済の完成がなければ私たちの生活もあり得ない。
永遠なる価値への信仰と 完成の可能性の希望が虚しくないためには、それらに最後の安定を与える絶対者が存在しなければならない。絶対者は、永遠なる価値の創造者であり支持者であり、私たちの自己を顕現し最後の完成を可能にする。神や仏や理性や価値意識という何かの絶対者が存在しなければ、私たちの生活も学問や芸術や道徳も全てが虚妄にとどまるだろう。
また、私はこの問題を概念的な言葉でなく詩的な言葉で説明する。よき生活を可能にするのは、1. 夢(永遠なるものに酔う心)、2.素直(剛健な謙虚な心)、3.愛(主客の完全な合一)である。
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よき生活とはいかなるものか?という第三の問題は複雑であるが、その指導理念の特に重要なものを取り出してきて、私が正当にとるべき生活態度を明瞭にしたい。
まず、生活において「何を」経験するかということよりも「いかに」経験するかということが大切である。同じ経験も経験する人の心の中では異なったかたちとして現れる。偉大な精神な些細な事柄にも深い意味を見出す不思議な力を持っている。鈍い精神の持ち主は大きな経験に遭遇しても、それが理解できず価値あるものとならない。私たちには多くの経験よりも深い体験をすることが重要である。そして、謙虚な心のみが全ての体験を意味あるものにすることができる。
次に、外に拡がっていく心よりも内に向かって堀さげていく心が必要である。経験や知識を表面的にしか味あわないジレッタントを私は拒絶する。ダ・ヴィンチやゲーテは、現実の生活の広い領域を征服し体験していたが、同時に関係した多くの領域に深い理解を持っていた。
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よき生活を生きようとする人が最初に必要とするものは素直な心であり、その特質は謙虚と剛健である。素直な心は、虚栄心と自負心を退けつつへりくだって真の自己の姿を眺め(謙虚)、醜さを受け入れつつどんな悪も弁解しない(剛健)。真の懺悔は、素直な心によってのみ可能である。私たちのよき生活は素直な心の反省によって自己を正視し、虚栄心と自負心を全て捨てるところから始まる。素直な心は、ジレッタンティズムでもセンチメンタリズムでもなく、自己の心の純粋をアフェクティションによって維持する。
素直な心は、何に対しても驚かない心ではなく、永遠のものや偉大なものに驚き、これらのものに信仰を持つことができる心である。よき生活を生きるためには、イデアリストかフマニストである必要がある。イデアリストはこの世を超越した永遠のものに憧れ、フマニストは醜悪な人間性の中に宿る神性を見出そうとする。天上の価値を憧れる、あるいは自己の地盤を掘り下げるような、拡がりと幅だけを持った平面ではない、深さを持った心の空間が必要である。(空間的生活)また、素直な心は、伝統や権威に支配され服従するものではなく、夢見つつ創造して自由な心によって自分の心のつくった偶像に身をゆだねるものである。
私の根本思想は、楽しみや嬉しさの意義や価値を否定するものではなく、それらを肯定するものである。悲しみや苦しみは、人の心を謙虚、反省的、内向的、活動的にする。つまり、悲しみや苦しみは人を真面目にする。一方で、それらは人の心を卑屈にさせ、猜疑的にする。楽しみや嬉しさは、人を不真面目にさせ深い体験をすることを忘れさせるが、一方で、素直な心を育てる。楽しみや嬉しさと悲しみや苦しみの調和が必要である。私は瑣末な楽しみよりも偉大な苦しみを求める。それ以上に偉大な楽しみを喜ぶ。私は、偉大なる苦しみを尊敬し、偉大なる楽しみに憧れる。
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個性は、心理学の知識ではんく、謙虚な心によってのみ可能な反省の知識である。 それは概念的知識によって十分に認識することはできない、心の内奥の闇そのものに関する真理の一部である。個性の理解の強さと深さは、反省の力の強さと深さに基づく。センチメンタリストには性格の強さも深さもない。
真の個性は普遍的なものが自ら分化発展してできたものの中に見出される。個性の根底は普遍的なものであり、それが自分の能力と活動によって内面的に発展して特殊なものになる。
個性は永遠なるものへの信仰に関係していて、それがある時私たちの生活の中の価値の転換を遂行し私たちの内面を更新することがある。個性の価値的同一は意志の自由によって成立する。
商品詳細
人生論ノート 他二篇
三木清
KADOKAWA、東京、2017年3月25日
648円、304ページ
ISBN: 9784044002824
- 人生論ノート
- 語られざる哲学
- 幼き者のために
- 解説 岸見一郎