『青年文化の聖・俗・遊〜生きられる意味空間の変容』高橋勇悦・藤村正之編、恒星社厚生閣 レジュメ

『青年文化の聖・俗・遊〜生きられる意味空間の変容』
高橋勇悦・藤村正之編/恒星社厚生閣/1990年
■本書の構成
序章
青年文化の価値空間の位相—聖・俗・遊その後
2現代の儀礼主義者たちー青年たちの外見へのこだわりを考察する
3.「聖」なるものとしての音楽
4.<エリート青年>と新しい個人主義
5.<少女>感覚と女らしさのゆくえーかわいらしさの社会心理
6.言葉と心—『タッチ』の社会学的理解

本書の理論的パースペクティブを提示している1章を紹介したい。

要約
青年文化の価値空間の位相—聖・俗・遊その後
はじめに
 かつての青春は、憂愁と熱狂が交錯する混乱と同様の時期。青春の「理想」と「現実」のギャップを埋めようとする行為と過程が、「青春」の充実感を生み出した。
 このギャップを埋めることができない。それを埋める行為の演技性や仮構が指摘される。90年代の若者にとって、「青春」の観念は、戯画化された揶揄の対象となる。→“「青春」してる。”
 青年たちはどのように、意味空間を構成し、この中で何に価値を見出しているのか?

1青年文化の聖・俗・遊
・『遊びと人間』カイヨワ
 デュルケームの聖—俗理論にホイジンガの遊びの議論を絡ませ、聖・俗・遊のダイナミクスの視角を提示。
 聖なるものと遊びは、非日常という限りでは共通するが、生活を軸として対照的な位置を占める。生活は、遊びを一瞬にして打ち砕くが、聖なるものの至高の力に不安なまま依存している。聖なる活動から世俗の生活に移るときには、ほっとした気分になり、世俗の生活の患いや逆境から遊びの雰囲気にうるときには新たな段階の自由を得られる。
・青年文化の大人文化への離脱の仕方が、
社会への抵抗(〜60年代)→社会制度への関与の回避(70年代〜)、に変わる。
 大人の現実主義的・実利的な「俗」からの離脱の方向が、「聖」=理想主義・厳粛主義(まじめ)から「遊」=自由主義志向への価値の方向へ転換。

・『遊びの社会学』井上俊
 文化を機能的にみると、「適応」とは現実の利害関係に実用主義的にあわせていく働きであり、「超越」とは理想や理念を掲げてそれを追求する働きである。これらに対して「自省」は「みずからの妥当性や正当性を疑い、みずからそれについて検討する機能」「その文化がよしとする理想や価値をも疑い、相対化する力」のことである。
 60年代後半〜70年代初期の文化の変動期には。「適応」—「俗」、「超越」—「聖」、「自省」—「遊」の親和関係が見られる。特徴的な「自省」—「遊」の結びつきは、私生活主義や啓蒙主義的理想主義への批判としての自由の希求によるものである。

・現時点(1990年)での理解は、「俗」の強化、「遊」の日常化、理想としの「聖」の弱化。
 70年代以降、聖—俗のなあいを批判する聖の理想主義への懐疑、俗による青年文化の商品化により聖・俗・遊がすべて「適応」に親和。大学のレジャーランド化と、働く青年のレジャー志向による遊の領域の増大。消費社会化による「聖の遊び化」と「遊」の日常化による「遊びの俗化」の進行。→青年期のあいまい化、青年の分化。
→青年の文化諸現象を、全域化する「遊」領域を手がかりに「聖」「俗」を再照射

・カイヨワの遊びの四分類
競争(アゴン)…スポーツ、チェス、ビリヤード
運(アレア)…じゃんけん、ルーレット、賭け
模擬(ミミクリ)…見世物、演劇、ものまね、人形、空想遊び
眩暈(イリンクス)…空中サーカス、スキー、ワルツ、メリー・ゴー・ラウンド、ブランコ

・遊びの四分類がルール/脱ルール、意志/脱意志の
二軸によって、マトリクスとして捉えられる。
ルール/脱ルールの軸は、聖と俗に対応する。
(「訳者解説—ホイジンガからカイヨワへ」多田道太郎)
競争と運の「計算の社会」=俗
模擬と眩暈の「混沌の社会」=聖
2競争と運の社会学—「俗」なる計算の位相
 競争の徹底にした青年の社会における運の浮上、運への関心を考察。

・青年たちが生きる教育や労働の場は競争に満ちている。
→競争とは分離された場としてのクイズ・占いへの関心と流行。

・一方で、競争のなかに含まれる運「属性に支えられた業績主義」も存在。
 「2世たち」の活躍は、自らの努力の及ばない属性要因の存在を浮かび上がらせる。脱所属をめざす業績主義が、再び生得要因にからめとられる。

・「ラッキー」…人間関係における相互行為の投企の偶然性=「アクションのあるところ」(ゴフマン)の存在を、青年たちが無意識に把握。
 同時に、運は、自分たちの不遇さを自分自身の努力の結果に帰属せずに正当化する「苦難の神義論」でもある。
 青年は、競争と運の複雑な連関の意味空間を生きている。

1.3模擬とめまいの社会学—「聖」なる混沌の位相
 模擬とめまいの社会学として、演技的行為と自己陶酔への熱中を分析。

・めまいに通じる陶酔感・恍惚感—コンサート
 音楽の「ノリ」=個体を超越した間身体的な作用力を体験する感覚。
 「身体技法」としてノルことで、(それは一つの演技でもあるが、)内的時間の流れに熱中していく。コンサートの大音響が与えるノリは、没我状態・自己喪失であるが、社会のシステムによる自己抑制と制御の管理性に対しての無意識的な抵抗でもある。

・「フォローする」「とかいって」「マジ」…ノリで日常生活の役割遂行のつまらなさをふきはらう演技的行為。自らの行為を演劇的.仮構的に捉える。コンサートとは逆に、日常生活に乗り込めない青年たちの「役割距離」や存在感の希薄さを呈示。
→「フレームこわし」(ゴフマン)に近いもの。日常の現実を聖化するための操作。

・日常生活の希薄さの認識を埋める手段としてコンサートの自己喪失における脱自我の瞬間があり、それらの落差自身によって自己確認がおこなわれる。

・「遊」のパースペクティブの獲得による「聖」「俗」に対する批判は、聖—俗図式による「社会的なもの」「個人的なもの」の対立(デュルケーム)をぼやけさせた。80〜90年代の青年に見られる、相互の自我領域の無難な尊重(演技的行為)と、聖なる人格崇拝の儀礼化(コンサート)は、「聖の個人化」=「個人が社会である」ということになる。「社会的なもの」の弱まりが、60年代以降の青年たちが求めてきた「自由主義」の一つの帰結となる。