1926 – 5月26日、マイルス・デューイ・デイヴィス三世、イリノイ州アルトンの黒人としては裕福な家庭に生まれる。父は歯科医で、母は音楽愛好家だった。
1935 – 父の友人から初めてのトランペットを譲り受ける。
1939 – 父親が新品のトランペットをプレゼントする。
1943 – エルクス・クラブでプロとして演奏するようになる。
1944 – ビリー・エクスタイン楽団がマイルスのホームタウン、セントルイスを訪れる。そのメンバーにはチャーリー・パーカー、ディジー・ガレスピーが含まれていた。
ジュリアード音楽院で学ぶという名目でニューヨークに移住する。チャーリー・パーカーの面識を得る。
1945 – チャーリー・パーカー・クインテットにディジー・ガレスピーの代理として加入する。
ハービー・フィールズ・セクステットのメンバーとして初レコーディング。『ファースト・マイルス』
1947 – 初のリーダー・レコーディング
1948 – J. J. ジョンソン、リー・コニッツ、ジェリー・マリガン、ギル・エヴァンスを含むマイルス・デイヴィス九重奏団、ロイヤル・ルーストに出演。クール・ジャズを創り出す。
1949 – 『クールの誕生』クール・ジャズをはじまりであり、ウェストコースト・ジャズに大きな影響を与えた。
タッド・ダメロンと初のヨーロッパ・ツアー。
1950 – アート・ブレイキーと共演、これがハード・バップを生み出すことになる。
1951 – 『ディグ』アート・ブレイキー、ソニー・ロリンズ
1953 – ドラッグ依存症を克服するためセントルイスに戻る。
1954 – ニューヨークのジャズ・シーンにカムバック。
『ウォーキン』ハード・バップの名盤・名演。
『バグス・グルーヴ』セロニアス・モンク、ミルト・ジャクソンと共演したクールなソロな魅力の名盤。
1955 – ソニー・ロリンズ、レッド・ガーランド、ポール・チェンバース、フィリー・ジョー・ジョーンズと「幻のクインテット」を結成。
ソニー・ロリンズに替わってジョン・コルトレーンを加えて「第一期黄金クインテット」を結成。
1956 – いわゆる「マラソン・セッション」において、ハード・バップの聖典とされる『クッキン』『リラキシン』『ワーキン』『スティーミン』をレコーディング。
『ラウンド・アバウト・ミッドナイト』によりコロンビア・レコードからメジャー・デビュー。
1957 – ジョン・コルトレーンとフィリー・ジョー・ジョーンズを彼らのドラッグ依存症に耐えられず解雇。また、クインテットによるジャズに限界を感じる。
『マイルス・アヘッド』ギル・エヴァンスと共演。
1958 – ビル・エヴァンスがマイルスのセクステットに参加する。
モード奏法を採り入れた『マイルストーンズ』をリリース。
事実上のマイルスのリーダー作であるキャノンボール・アダレイ『サムシン・エルス』をブルーノート・レコードよりリリース。(「枯葉」の名演を収録。)
1959 – モードジャズの完成形でありジャズ史上の最高傑作である『カインド・オブ・ブルー』をリリース。
1959 – 『スケッチ・オブ・スペイン』ギル・エヴァンスと共演。ロドリゴ作曲のアランフェス協奏曲の名演を含む。
1964 – ハービー・ハンコック、ウェイン・ショーター、ロン・カーター、トニー・ウィリアムスと「第二期黄金クインテット」を結成。
1965 – 『E.S.P.』新主流派の先駆け。
1967 – 『マイルス・スマイルズ』この作品で提示したスタイルに対して評論家によって「新主流派」と流派の名前が付けられた。また第二期黄金クインテットのメンバーや関連するミュージシャンの作品が「新主流派」(ニュー・メインストリーム)と呼ばれるようになる。
1968 – ロックのリズムとサウンドを採り入れ、ハービー・ハンコックにエレクトリック・ピアノを弾かせ、ギターにジョージ・ベンソンを呼び『マイルス・イン・ザ・スカイ』をレコーディング。
1969 – 『イン・ア・サイレント・ウェイ』タイトル曲はジョー・ザヴィヌルによる作曲。
1970 – 『ビッチェズ・ブリュー』本格的に電子サウンドとロックの要素を採用。
1972 – 『オン・ザ・コーナー』ファンクのサウンドとリズム、民族楽器をフィーチャー。
1975 – 体調不良により活動停止。
1981 – ジャズ・シーンにカムバック。マーカス・ミラー、サックス奏者のビル・エヴァンス、マイク・スターンとコラボレーションしライヴ・アルバム『ウィー・ウォント・マイルス』をリリース。
1985 – 『ユア・アンダー・アレスト』ポップスのアレンジ技法を用いる。二曲のポップソング『タイム・アフター・タイム』シンディー・ローパー、『ヒューマン・ネイチャー』マイケル・ジャクソンを収録。
1986 – マーカス・ミラー、トニー・リピューマの全面プロデュースによる『TUTU』をリリース。マーカスはプロデューサー、マルチプレイヤーとして起用されマーカスとの「デュエット」のような作品となる。
1991 – 9月28日、逝去。
1992 – 『ドゥー・バップ』ヒップ・ホップ、ラップをフィーチャー。
◻︎参考文献
『名盤できくジャズの歴史 1910s〜1990s』スイング・ジャーナル(スイング・ジャーナル社、1993)
『マイルス・デイヴィス ジャズを超えて』中山康樹(講談社現代新書、2000)
『地球音楽ライブラリー マイルス・デイヴィス』中山康樹、後藤雅洋、斎藤実、佐藤良平、杉田宏樹(TOKYO FM出版、2003)
『新書で入門 ジャズの歴史』相倉久人(新潮新書、2007)