私は、昔からバイエルンのA社とボストンのN社の製品を愛用していて、ナイキの製品を意識的に嫌悪しているので、授業でナイキの事を勉強したからといって、そのイメージがそれほど変わったということはない。ナイキは、発展途上国の安い労働力で作った派手なシューズやアパレルを、アメリカや日本で高く売りつける悪い企業だ、というイメージは変わらない。だが、ナイキには、リーボックやプーマ、L.A.ギア、ニューバランスなどのように陳腐化せずに、常に安定してかつアグレッシブに斬新な製品やCMを打ち出していける何かが確かに存在する。授業を受けて理解したことのなかで最も重要だと思うことは、その理由がわかったことである。つまり、ナイキの企業組織やビジネスモデルが、他の同業他社や他業種の他の会社と何が違うのか理解できた、ということである。 では、何がナイキを他の企業と違う特異な企業にしているのだろうか? まず、最初にあげられるのは、ナイキの契約エンドーサーを用いたメディア戦略である。ナイキはナイキのスピリッツを表現するような型破りなアスリートと契約を結び、かれらとリレーションシップを築き、かれらをブランド・メディアとして用い、また時には「ナイキ」をかれらの主義主張を伝えるインフォメーション・メディアとするようなメディア戦略である。 マイケル・ジョーダンを起用した「エア・ジョーダン」のCFは、ナイキのエンドーサーを用いたメディア戦略の典型である。そのCFでは、ジョーダンの助走から、空中を歩くように飛翔し、ダンク・シュートを決める姿がスローモーションでクローズ・アップを多用して描かれる。このCFは、スポーツの素晴らしさや美しさ、躍動感を表現している。一方、現実の試合のジョーダンもCFで描かれている程ではないにせよ美しいプレーをする。現実とCFとの相互のフィードバックが起こり、観客はジョーダンのプレーをさらにファンタジックなものとして眺め、ジョーダンはCFがもたらすイメージでさらにセルフ・イメージに自信をつけることになる。つまり、このCFの目的はジョーダン自身のためのイメージ戦略、そして、ジョーダンをメディアとしたスポーツの本来の価値の追求であり、それを人々に広めることだと言える。 一方、タイガー・ウッズの「ハロー・ワールド」のCFでは“ナイキ”がエンドーサーの主義主張を伝えるための機会を提供して、そのメディアとなっている。そのCFではタイガー・ウッズがゴルフ界に残る人種差別を訴えるための場を提供している。ジョーダンのCFにも言えることだが、このCFは、ナイキのアスリートへの尊敬を端的に表している。 つまり、ナイキはエンドーサーを用いたメディア戦略によって、スポーツの本来の価値の追求とアスリートへの尊敬を表現している。そして、そのナイキが存在根拠とするものは、エンドーサーとスポーツである。 (その証拠に、現在、放送されているナイキの”OLE”のCFは、ブラジルのサッカーの遊びの精神と、スポーツのダイナミズムを表現しているのが理解できる。だが、アディダスの”impossible is nothing Road to Lisbon”のCFは、ほぼ同じコンセプトで作られているのに、ナイキのような明確な目的意識がないのか、選手がストリートでユニフォームを着たままサッカーをしたり、ストリートでサッカーをしている理由が見えてこなかったり、チグハグな印象を受ける。また、”impossible is nothing”は否定態の否定であり間接的な表現で弱い印象を受ける。) ナイキのCFの多くは、具体的な製品の説明はせず、アスリートのスポーツをする姿に”Just do it”のキャッチ・フレーズやアスリートのメッセージが短く付け加えられるだけである。ナイキのCFは、スポーツの美しさや楽しさ、躍動感、激しさとアスリートの闘争心や熱意を、真面目に表現することを第一義にしている。サッカーのブラジル代表選手が空港で暴れる「エア・ポート98」など“遊び”を取り入れたCFでも、自らに対して自嘲的ではありえない。そういったCFでも、アスリートをギャグにはせず、スポーツの躍動感や楽しさを伝えようとしているのがわかる。そこから考えられることは、ナイキのCFは製品のアドバタジングではなく、スポーツの素晴らしさのプロパガンダであるということである。 ナイキのCFは、スポーツのためのプロパガンダであり、それを長年続けてきた。そのことは、スウッシュ・マークが付いた製品に通定する一定のコノテーションを付与し、スウッシュ・マークがナイキの製品が他のブランドよりその企業のイデオロギーやスピリットの表象になることを助長している。それらのメディア戦略と製品群の積み重ねが、ナイキに言葉に還元しきれない本質的なブランド・アイデンティティをもたらしている。消費者がナイキの製品を(意識的に)購入し身につけることは、ナイキの作った意味世界への参加やナイキのイデオロギーへの小さな賛同、ナイキというブランドを用いた自己表現となる。また、CFがある一定のコノテーションを作りだす、一方、スウッシュ・マークの付いた製品はそのコノテーションの世界を支持する関係ができあがっている。つまり、ナイキには、メディアがメッセージになり、メッセージがメディアになるような関係が確立されている。ナイキはそのメディア戦略によって、他のスポーツ・ブランドにはない、より上位のより強固なブランド価値を持っているのである。(例えば、アディダス→プレデター→ジダンは連想できでも、”Just do it”のようなキャッチ・フレーズや明確な企業のイデオロギーは思い浮かばない。) ナイキは、オレゴン州にあるワールド・キャンパスと呼ばれる本社ビル群を持っている。そのワールド・キャンパスの建造物群には、ナイキの支援した歴代のエンドーサーの名前がつけられ、彼らのペイントが描かれやレリーフが飾られている。そういうことをする理由は、ナイキの神であるエンドーサーたちの名前をつけ肖像を置くことで歴史性のない建物に意味付与を行い、そこを特別な宗教的な空間にすることである。 フィル・ナイトのポリシーは「誰もがアスリート」だということだ。ナイキの本社には陸上トラックや体育館があって、社員が頻繁に利用するという。それに加えて、建物にエンドーサーの名前をつけることで、エンドーサーの存在を身近に感じ、社員自身がアスリートでありナイキの熱狂的ユーザーである、という考えが生まれ、社員がワールド・キャンパスに対してトポフォリアをもちモラールや結束が高まる。社員は、スポーツに対する熱意や、自分の仕事は単なるビジネスではなく、ナイキは前人生をかけて働く価値のある企業だと信じることになる。それは、社員に対して行っているプロパガンダやブランド・コミュニケーションだと言える。ワールド・キャンパスによって、社員は「ナイキは、スポーツ選手による、スポーツ選手のための組織であり、スポーツ選手の企業でなければ、その存在価値はない」というナイキ精神にどっぷりはまることになる。 ナイキが行うメディア戦略の方法やナイキの歴史からわかること、そして、ナイキが他の企業と異なるところは、フィル・ナイトとビル・バウワーマンのスポーツとアスリートへのスピリットと彼らのライフスタイルを純粋に追求することによって創造された新しいかたちの企業であるということである。ナイキは、まずスポーツとアスリートを存在根拠とする企業であり、従業員は何より「スポーツのため」という明確な目的意識を持って働いているのではないか。また、ナイキは自らの活動がその根本であるスポーツマン・シップに反してはいないか常に自問自答・自己反省していて、それがナイキを成長させて来たように見える。つまり、シューズを売るためのではなく、まずスポーツ本来の価値とアスリートへの貢献をどのように表現し実現するか、それをプリンシプルして、そのためにはどのようなビジネスモデルやメディア戦略が必要か、そのことへの飽くなき追求が生み出した企業がナイキである。