サッカーは、本来は遊びである。自らの楽しみのためのただの遊びである。ただのボールを追い掛け、ゴールへ蹴る行為が、なぜエンターテイメントとなり、期待、喜び、悲しみ、感動を呼ぶのだろうか? サッカーのゲームを記号論的に考えていくと、要素をルールとパフォーマンスに分解ことができる。ルールとは抽象的な規則の体系であり、パフォーマンスは現実の身体活動である。そのルール/パフォーマンスは、コード/メッセージ、またはラング/パロールにあたる。そのサッカーのラング/パロールによって、ランガージュとしてのサッカーが表れてくる。ある特定の集団がゴールをめがけてボールを蹴って遊ぶだけでは、それはたいした意味を持たない。ルールというコードが共有されることで、サッカーは近代的なスポーツとなった。つまり、サッカーがサッカーであるのは、ルールによって、分節しきれない集団の身体のパフォーマンスが分節され、複雑性が縮減され意味づけられるからである。(また、ここでいうラングとしてのルールは、ルールの中には明記されないチームのプレイスタイルやフォーメンション、ファウルの微妙な判定の基準なども含んでいる。) サッカーはルールによってゲームとして成立するが、私たちがエキサイトするのはそのラングの中で行われるパロールとしての多様なパフォーマンスの方である。ルールによりゲームは時空間の中で意味付けられ進行していくが、ルールは空虚で恣意的な体系であり、観客が魅了されるのはサッカーのパフォーマンスの創造性と一回性である。ルールという統辞的連鎖のなかでの、パフォーマンスの範列の組み合わせの無限大のパターンのダイナミクスと、そのアウトプットである得点と勝敗という差異がサッカーの本質である。 (言語の)パロールには、ラングのコードとしての単純な実践と、ラングの創造的な使用によるラングそのものの変容という二つの機能がある。つまり、ルールは普遍的(ユニヴァーサル)だが不変ではない。サッカーは明文化されたルールの中で、パフォーマンスの実践がくり返されることで戦術やテクニックを進化させてきた。また、サッカーのシンプルなルールは、特定の言語によらない文化を超越したコードになることができ、国境や文化を超えて受け入れられ、各国の多様なサッカーのスタイルを生み出した。 そして、サッカーは違ったコンテクストを受容している多くの人をファンに持っている。サッカーのパフォーマンスとその結果のシニフィエ(デノテーション、事実としての勝敗の情報)よりも、シニフィアン(コノテーション、応援する国・チームへの思い込みがある上での勝敗の情報)の、受け取り方に大きな差異が生まれることが、サッカーを熱狂的なスポーツにしている。 また、ゲームそれ自体、爽やかなイメージ、W杯の歴史、ヒーローのサクセスストーリー、選手のライフスタイル、色鮮やかなユニフォーム、サッカーの映像、メディアの言説、応援の「マナー」、そうしたすべての要素によるエクリチュールの作用が、サッカーを現在のサッカーにしている。