6. ユース・カルチャーとしてのテクノ・カルチャー

6.1.「若者文化の終焉」とトライブ
では、ここまで記述したテクノ・シーンのカルチャーは、現在の日本における「ユース・カルチャー」としては、どのような特徴を持つのだろうか?
小谷敏は、若者の共通のコミュニケーションの基盤であり広範な世代的同一性の感覚を喚起するものとしてあった若者文化の消失を「若者文化の終焉」としている。その要因は、消費社会化による若者の反抗とカウンター・カルチャーの無効、「自分が何をする必要もないし、また何をしても無駄である。」という「オートマティズム」の感覚、文化的な「差異化」=見栄の張り合いさえ面倒くさいと感じる他者への無関心、情報爆発による表現ジャンル・文化ジャンルの多様化と平等化などだと考えられる。[小谷、1998:226-236]
例えば、全共闘世代にとっての学生運動やファーク・ミュージック、アイビー、80年代の若者にとってのDCブランドやフレカジ、アメリカン・ロックやニュー・ミュージック、FMラジオは、大多数の若者の共通のコミュニケーションの基盤であり、若者たちにとっての「正しいもの」だった。90年代中盤以降、情報のチャンネルの増加による文化ジャンルの多様化や価値観の多様化により、大多数の若者を巻き込むようなファッションや音楽の流行やムーヴメントは発生してなくなっている。一方で、格闘技やオタク文化、テレビ・ゲームがブームを起こしたとしても、多数の若者が関心を寄せるものではないし、それらは「若者らしい」表現や趣味とは言えない。
中西新太郎は、90年代に起きた若者たちのサブカルチャーの変化の特徴を、共通文化の形成基盤の脆弱化と、共通の流行を見つけるのが難しいほどの各自の趣味の領域での嗜好の多様化だとしている。[中西、1997:26]さらに中西は、若者文化の幅広い範囲での細分化と、音楽とファッションが結びついた若者スタイルの消失を指摘している。[同:53-58]だが、現在では、さらなる「若者文化の終焉」という事態の進行により、若者の共通文化というものの存在や若者が趣味(hobby)やスタイルに関心を持っているかどうか、ということが怪しいという状況が起きているように思う。
また、小谷敏は、90年代以降、「反体制的」な若者としたたかな文化産業の若者の新奇な表現の“共謀”による、メディアの中での文化的表現としての若者の反抗といった意味での「若者文化」さえ存在しない、としている。[同:235-236]現在では、バブル経済の崩壊による文化的な事業に対する経済規模の縮小により、若者文化の場に資本が流れてこなくなっている。若者のサブ・カルチャーの発信源であったラジオの深夜放送、先鋭な若者の表現の場となったテレビの深夜番組や音楽の新しいムーヴメントを造り出すような先鋭な選曲をするFMラジオ局がなくなり、若者文化の表現の場が失われている。
そういった状況の中で、若者たちは「感性の小共同体」[同、1998:]や宮台真司が「分化したものが閉じ始め、互いに無関心になっていく」としている「島宇宙」[宮台 他、2007:495]に追い込まれ、そこに閉じこもり、その中で少数のカルチャーを共有する者の間で情報を交換したり消費することで自己満足している。
そして、そういった「若者文化の終焉」の状況では、先端的な文化に積極的に関心を持ったり参加したりする若者の絶対数が減っていると言えるのではないだろうか。
また、「若者文化の終焉」について別の角度からの批判が存在する。デイヴ・ヘブテッジは、イギリスにおけるレイウ゛・カルチャーやクラブ・カルチャーの大流行による「スタイル・カルチャー」の消滅を「ユース・カルチャーの終焉」だとして批判している。テディ・ボーイやモッズ、パンク、スキンヘッズといったユース・カルチャー、つまり「族」は、社会への反抗を行う一方で、「族」同士で相互に不信感や敵意を抱きあっていた。「族」には、はっきりとした境界があり、社会階層やファッション、嗜好する音楽、背景にある思想が一体になっていた。しかし、サッチャー政権の階級制をベーストした国政への反動と、レイウ゛・カルチャーやクラブ・カルチャーの大流行とハウス・ミュージックの「誰にでも受け入れられる博愛主義」は、階級差のない社会への希求となり、「族」つまりイギリスの“良き”「スタイル・カルチャー」を消滅させた。そして、現在のクラブ・カルチャーも、かつてのアシッド・ハウスのレイウ゛・カルチャーの強烈な破壊力を失い、人々に公認されたサブ・カルチャーのひとつになっている。[ヘブテッジ、1999:6-15・214-215]
同じように、日本における「若者文化の終焉」によって形成される「感性の小共同体」や「島宇宙」には、様々な表現ジャンルの結びつきは見られない。日本においても「族」によって形成される「スタイル・カルチャー」は存在しない。裏原宿のファッションに繊細なこだわりを持つ若者は、ファッション以外には興味を示さない、その背後には様々な表現ジャンルや思想と結びつくようなポリシーが無い。一方で、そのファッションはDCブランドやパンクスのようなハイ・ファッションや最先端のファッションではない。
そういった「感性の小共同体」や「島宇宙」に閉じこもり、「スタイル・カルチャー」を持たない現在の若者のあり方を「トライブ」という概念を用いて理解することができる。
上野俊哉は、『アーバン・トライバル・スタディーズ』において、現在の音楽やファッション、スポーツ、マンガなどの文化によって形成される若者たちの小集団を、「アーバン・トライブ(都市の部族)」として、以下のように定義している。
「ある種の若者文化、サブカルチャー、都市の文化のなかに様々なかたちで存在する趣味やスタイル、身ぶりはそれぞれ小さな集団性、共同性を形成し、互いに影響しあったり、また文化的に、時には物理的に争ったりしている。このような感覚の共同性と、場合によってはある種の敵対関係によって成り立つ集団を、ちょうどアルカイックな社会において儀礼や信仰を共有する集団のカテゴリーになぞらえて、「部族」という言葉で呼ぼうということである。」[上野、2005:16]
また、「それぞれの小集団は自らを絶対的なものとして位置づけ、互いのライフスタイルにおいて対立しあう一方で、同時に異なるライフスタイルの間に一種の間に一種の「多文化主義」を成立させ、相対的な安定を築くことができる。」[同:17]という。
このアーバン・トライブが依拠する共同性は、「美的感覚的なものによる共同性」[同:20]であり、バックグラウンドに社会階層や思想等の背景を持たない。そこが「スタイル・カルチャー」とは異なる。若者たちは、文化のサブ・ジャンルの単位でトライブを形成していて、そこには明確なほかの表現ジャンルとの結びつきがない。そして、他の細分化された文化ジャンルやそのサブ・ジャンル、表現ジャンルのトライブに属する者とは緩やかに対立し敵対しあう一方で、決定的な断絶がありコミュニケーションをとることができない。
6.2.スタイルなきカルチャーとしてのテクノ・カルチャー
では、テクノという音楽ジャンル、特にデトロイト・テクノというサブ・ジャンルとそのトライブはどういった特徴を持つと考えられるのだろうか?
デトロイト・テクノは、クラブ・シーンではかなり“硬派なジャンル”だとされている。そのパーティーに集まるクラバーやアーティストにそういった自意識はないと思われるが。デトロイト・テクノやジャーマン・テクノのひとつの発展形態であり、それらの「ハードなもの」である「ハード・テクノ」とハードコア・テクノは、名前は似ていても、内実は全く関係のないほとんど相容れないジャンルである。
クラブ・シーンやテクノ・シーンというものは一体ではなく、ほとんどの場合、傾向が全く異なるジャンルどうし・サブジャンルどうしは、激しく対立し、音楽やカルチャー、人に全く共通項や交流がない。例えば、上野俊哉の描くサイケデリック・トランスのシーンと、増田聡の描くデトロイト・テクノのシーンは全く共通項のない別個の音楽シーンである。同じテクノ系レコード店、ハウス系レコード店でも、店によってどんなサブジャンルを専門とするかで全く共通項がない場合がある。
デトロイト・テクノとその周辺のサブジャンルのテクノのパーティーが主に行われるクラブは、マニアックラブ(青山、現在は閉店)、WOMB、module(渋谷)、AIR(代官山)、新宿にあった頃のリキッド・ルームである。つまり、テクノのパーティーが行われるのは実は渋谷を中心とするごく狭い地域のクラブである。また、テクノ専門のレコードショップは渋谷の宇多川町周辺に集中する。
テクノという同じジャンルのパーティーでもクラブ(のある地域)によってそこに集まるクラバーの雰囲気やパーティーの雰囲気が異なる。一方で、パーティーの音楽ジャンルとそのサブ・ジャンルによってもクラバーとパーティーの雰囲気は異なる。この現象から「同じクラブへのリピーター」と「同じ音楽(のサブ・)ジャンルのパーティーへのリピーター」が存在することが予測される。また、「デトロイト・テクノとジャズが好き。」「デトロイト・テクノは好きだけど、ハウスは聴かない。」というようにクラバーたちには音楽の趣味のレンジがある。これらのことからクラバーは複数のサブ・ジャンルのトライブに参加することもあるし、その興味のあり方は不定形で特に近接するジャンルやサブ・ジャンルに対して緩やかなものだという面もある、ということが理解できる。
デトロイト・テクノ、あるいは「テクノ」は音楽に対応するファッションが存在しないサブ・ジャンルやジャンルでもある。
一般にイメージされるいわゆる“クラバー”の外見のイメージとは以下の様なものだろう。男子は、キャップを斜めにかぶり、ぶかぶかのスウェットとバギーパンツに、バスケットボールシューズを着用し、常に挑発的な態度をしている。女子はフロントホワイトのキャップにキャミソール、フレアのローライズジーンズ、それにミュールを履き金髪のロングヘアで身体は細いといったものだろう。だが、このイメージは、ヒップ・ホップやレゲエ、トランスに代表されるクラバーのイメージである。
現在のデトロイト・テクノ系のパーティーでは“クラバーらしい”ファッションや振る舞いをした若者はまず見かけない。特定のファッションのスタイルがなく、ファッションに全くまとまりがない。デトロイト・テクノやテクノのパーティーは一般にクラブについてイメージされる様な「オシャレで大人っぽい場所」ではない。
だが、90年代前半までのクラブという空間の意義は現在のそれとはかなり違っていた。89年から95年まで芝浦に存在した巨大クラブGOLDの様子は次のように述べられている。「「GOLD」は日本で初めてのハウスを軸としたクラブカルチャーを伝える本格的なクラブであった一方で、最先端のおしゃれ人間、高感度人間が集う情報発信基地の役割もはたしており、ボンテージのフェティッシュ・パーティやファッション関係など、そこで行われる文化的イベントの方に私は興味があったのだ。」[湯山、2005:247]当時のクラブでは、ファッションやサブ・カルチャーの体験という要素は不可欠であり、DJプレイによるサウンドをもっぱら第一義とする空間ではなかった。以前のクラブと現在のクラブでは、クラバーやDJ、パーティーの主催者のクラブやパーティーに対する考え方や感性の方向性が異なっていた。湯山玲子は、現在のクラブの音楽への特化を「クラブ空間が情報発信基地という装置を必要としなくなった成熟を考えるべきだろう。」[湯山、2005:248]とポジティヴに評価している。
ジョン・サベージは、クラブ・カルチャーに「スタイル」がないことを一種の若者の「堕落」として論じているが、日本のクラブ・カルチャーにおいては、“音楽”やパーティーをそれ自体として自己目的的に楽しむ・楽しめることはポジティブに捉えられるものではないだろうか?テクノのトライブは、ファッションや階層ではなく、テクノのイデオロギーに共感し、ダンスのイリンクスや至高性の体験を中心的な価値として形成されるトライブである。
6.3.「聖」と「遊」の連関としてのテクノ・カルチャー
テクノは、大多数の若者の共通のコミュニケーションの基盤になるものではない。ファッションやアート、映画、思想といった他の表現ジャンルとの明らかな繋がりもない。では、テクノのパーティーとそれをとりまくカルチャーは若者文化ではないのだろうか?そのインディペンデントな音楽シーンやダンスによる能動的な聴取や至高性の体験は、若者文化とは考えられないだろうか?
藤村正之は、ロジェ・カイヨワの「聖・俗・遊」の議論を援用して、60年代後半から見られる若者文化の特徴を「聖の遊び化」とし、「遊びの聖化」の可能性を指摘している。
青春とは、理想と現実のギャップを埋めようとする時期である。現実的・実利的な生き方を志向する大人の「俗」な世界に対して、若者たちが理想主義や厳粛主義(真面目)を志向する「聖」の意味空間をつくることで対立することが、従来の若者文化の存在意義であった。しかし、60年代後半から70年代後半に見られた若者文化の新しい動きは自由を求め、「遊」の自由主義志向によって、「俗」の実利性や「聖」の非人間性への批判を行った。だが、その「遊」の価値による批判は「聖」一般の批判ではなく、「聖」と「俗」のなれあいを批判するものであり、「聖」「遊」連関としての理想性を保持するものであった。[藤村 編、1990:7-10]
藤村は、80年代終盤の時点での若者文化の理解を、「聖」の衰退、「俗」の強化、「遊」の肥大化・日常化だとしている。「遊」の肥大化や日常化、つまり、若者文化の商品化や「毎日がお祭り」になる消費社会化は、「遊」に対する価値や緊張感を曖昧にし、「聖」と「遊」連関によって存在していた「遊」の批判精神を失わせることになる。また、消費社会のなかで「遊ぶ」若者は、消費者として「俗」の大人社会からターゲットとなり、若者が若者文化を規定するのではなく、若者文化が若者を規定するという逆説的状況が起こってくる。[同:10-13]
さらに、カイヨワの「遊びからの社会学」の議論を取り入れ、若者文化の一般的な価値のあり方について「遊の四分類」のパースペクティブによるモデルを提起する。カイヨワの遊びの四分類とは、a.競争(アゴン)、b.運(アレア)、c.模擬(ミミクリ)、d.眩暈(イリンクス)の四つである。このうち、アゴンとアレアが「計算の社会」である「俗」の領域に投影され、ミミクリとイリンクスが「混沌の社会」である「聖」の領域に投影される。若者文化はミミクリとイリンクスによって、「俗」の日常的な世界から共に隔てられる、「聖」=「緊張」の領域と「遊」=「自由」の領域を結びつけることによって意義づけられている。[同:17-21]
つまり、若者文化の価値や意義をもっとも簡潔に表現するなら「真面目に遊ぶこと」となる。だが、現在、「若者文化の終焉」の空気の中で、若者たちは真面目に遊ばなくなってきている。DCブランドによるモード・ファッションのように究極的なものを目指しているわけではなく、アイビーやフレカジのように若者の真面目さや爽やかさを体現してもいないような、惰性的な裏原系のファッションやヒップ・ホップ系のファッションは「若者文化」といえるのだろうか?テレビ・ゲームやアニメ、マンガといった巨大産業によって生み出される表現を享受するだけの若者を「若者」といえるだろうか。音楽、映画、文学、演劇や美術などの中の先端的な表現に積極的に消費もせず関心さえ持たない若者は「若者」ではないのではないか。
バブル崩壊や情報爆発、文化ジャンルの「島宇宙」化による「若者文化の終焉」のなかで、テクノ・シーンも、多数の若者が、コミュニケーションの媒介として用い、「俗」的な社会への積極的なアンチテーゼとして依拠するものではない、またファッションなどと結びついたスタイル・カルチャーではなく背景となる政治的思想が存在しないという意味では若者文化ではない。だが、そこでは若者は、(若者に限らないかもしれないが、)自らそれ自体が価値を持つ“ダンス”という心身を消耗させる能動的な聴取によって、アイロニカルなものが介在しない強烈なイリンクスや至高性の体験をしている。つまり、クラバーたちは、真面目に遊んでいる。テクノ・シーンは「聖」性(まじめさ)と「遊」戯性の連関によって、オルタナティブとして文化産業に対峙しているという点では確かに若者文化である。