4.1.ディスコでのダンスと音楽
では、そういった歴史の中で形成されてきたクラブという空間は従来のディスコという空間と一体どういった違いがあるのだろうか?
湯山玲子は、ディスコとクラブの大きなギャップのひとつを、性にまつわる側面だとしている。ディスコ世代の人たちは、クラブをナンパ目的の風俗的な場所だと判断してしまうが、実際にはクラブでは性の匂いが希薄である。[湯山、2005:16]
そういった差異の現れのひとつがダンスのあり方や意味の違いである。かつてのディスコでのダンスは現在のクラブでのダンスとはだいぶ様相が異なっていた。当時のディスコでは曲ごとのダンス・スタイルや各店ごとのオリジナルのダンス・ステップというものがあり、集団でラインになって踊ったり、お互いに向かい合って異性に見せつけるように踊ったたりしていたという。そのステップをいち早く覚えることは、フロアでの自慢やステータスでもあった。[湯山、2005:222・高橋、2007:24-25]
また、ディスコにはドレス・コードがあった。ディスコに相応しい服装をしなければ入場を断られることもあるし、それ以前にファッションに自信がなければ、その場に入り込むことができなかった。[湯山、2005:226-227]
つまり、ディスコはダンスすることを見せる場であった。ディスコは音楽で踊ることを最大の目的とするというよりも、若者はナンパや恋愛を目的として集まり、脱日常の大人の夜の社交場という要素が強かった。
また、当時のディスコ・シーンもひとつではなく、本格的な「ブラック系」のディスコ/ヒットチャート中心のディスコ、サーファー系ディスコ/ニュー・ウェーウ゛系ディスコというカテゴリーの対立があった。[湯山、2005:223-244]概して、現在の日本のテクノやヒップ・ホップのクラブ・カルチャーは、ニュー・ウェーウ゛系のディスコの中から産まれてきて、トランスやパラパラのクラブはサーファー系ディスコの系譜を引き継いでいると言える。
ディスコではレコードをミックスするのではなく、フェード・イン/フェード・アウトで一曲一曲の曲間を切り、その間に曲の紹介やトークを入れるというスタイルで楽曲が流されていた。[高橋、2007:31]そして、当時のディスコにはスウィートなバラードが流れるチークタイムという時間があった。チークタイムになると照明が暗くなり、カップルは誰はばかることなく身体を寄せ合ってチーク・ダンスを踊り、一人で来ている男子はチーク・タイムを口実にナンパをすることができたという。[高橋、2007:25、印南、2004:294]ディスコでの音楽は、もちろんそれ自体にも価値はあるのだが、それは、どちらかというとステップを踏んだ定型のあるダンスを踊ることや性的な感情をあおることのために用いられるという傾向があった。また、曲間は切断され、ダンス・タイムとチーク・タイムで雰囲気は一変し、当時のディスコの一晩のイウ゛ェントには全体としてのストーリー性はなかったと考えられる。
4.2.「大きな物語」として構築されるパーティー
クラブにおける音楽の意味と扱われ方は、ディスコのそれとは大きく異なる。
クラブのダンスフロアでは、開店から閉店までDJによってレコードがロング・ミックスされることによって、ノン・ストップで、常に一定のテンポで、大音量で音楽が流されていて、クラバーは、その中で一晩を踊り明かす。(図4)一人のDJの持ち時間は1〜3時間で、3〜5人で交代してプレイしていく。稀にロング・プレイ・セットといって一人のDJのみが6〜8時間といった長時間に渡ってプレイする形式のパーティーが行われことがある。
一人のDJが一晩を通してプレイするのが元来のディスコのDJスタイルであり、一人のDJによって一晩のパーティーのストーリーが紡がれそれを体験することがかつての本来のハウス・ミュージックのDJプレイとクラビング(クラブへ行って楽しむこと)の醍醐味だった。テクノの流行により、現在では数人のDJでプレイするスタイルがあらゆるジャンルのパーティーで標準となっている。
パーティーは中盤のゲストDJやライヴ・アクトが登場する時にテンションがピークに達するように構築され、パーティー全体としては基本的に「起承転結」、あるいは「起転結」といった構造をもつ。その構成の仕方やテンションのコントロールの仕方を具体的な例で説明してみたい。まず一人目のDJはテック・ハウス、ディープ・ミニマム、クリックといったBPM110〜120程度と遅くテンションの遅い音楽で、1時間30分〜2時間程度プレイし、フロアの雰囲気をつくっていく。まだこの時間には、照明も一部しか使われておらず、効果は抑えられている。これが「起」にあたる。二人目以降のメインのゲストの前にプレイするDJは、一人のDJが造った雰囲気やテンションを受け継ぎ、徐々に音楽のテンションを盛り上げ、音量を上げ、BPMを早くして、クラバーやフロアのテンションをピーク寸前までもっていく。これが「承」にあたる。そして、メインのゲストDJやライヴ・アクトが、満を持して登場する。BPM140〜147程度のハードな音楽が用いられ、サウンドの音量は最大になり、それに同調してクラバーたちのテンションもピークに達し、「至高性」の空間が現出する。その時には、照明やスモークなどのクラブの施設による演出も最大限にその性能を引き出され、VJによるスクリーン上の映像も最もダイナミックなものになる。これが「転」にあたる。この時に大掛かりな演出をしたのにフロアにクラバ−が集まってないと逆に気まずい雰囲気になる。DJ教則本などでは、一つ一つのDJプレイは起承転結の構造を持っている、あるいは持つべきだとされている。[沖野、2005:34-36]だが、テクノのDJプレイでは、明確な起承転結の構造は存在しない。しかし、たまに、メインのDJが起承転結という構造をもったプレイをすることもある。その後に出演する単数、あるいは複数のDJは、多少、曲調やサブ・ジャンルを変え雰囲気とテンションをある程度、維持しながらパーティーを終局に持っていく。パーティーの終盤では「アンセム・ソング」やヴォーカルの入ったトラック、テクノ・ポップのトラックが用いられることがあり、再びメインDJが登場する等して、もう一度ピークが訪れパーティーが締めくくられることもある。これが「結」にあたる。アンコールが行われることもよくあり、3〜5曲、20分程度、アンセム中心のプレイが行われる。
DJは、インタラクティヴに、リアル・タイムに、フロアの状況に合わせて様々なトラックを用いてプレイを構成しさらにそのサウンドを加工することで、それらのトラックは単にそれらを再生させる以上の価値が創出される。その価値は、個々のトラック、個々の時空間が結びついて、DJプレイやパーティーといったある“かたち”の中で具現化される。
記号論における記号やテクストの説明を援用して、DJプレイの価値の現われかたについて説明したい。
記号学では、記号やテクストは、その構成要素や記号の差異にもとづくシステムによって成立する、としている。記号やテクストのシステムとしての関係論的な集合においては、差異こそが基本になる。分節された構成要素を結びつけることによって記号やテクストは生み出される。言語の場合、音素という分節化のシステムは、極めて限られた数からなる形式的要素の組み合わせによって、極めて多くの単語をつくりだすことができる。[石田、2003:40-44]
また、記号のシステムの重要な特性は、そのあり方が「反復」することにある。差異による分節のシステムは、記号やテクストの実現の場において反復するネットワークを作っている。記号の価値の側面のひとつは、その要素がそのシステムにおけるすべての記号と取り結んでいる交換可能な関係によって決定する。[同:45-46]
記号やテクストは、そういった交換可能な関係の反復のシステムを通して呼び起こされる。そのシステムは、パラディグム(範列)とサンタグム(統辞)という軸によって規定される。パラディグムとは等価性によって特徴づけられる記号同士の「連合関係」であり、サンタグムとは記号同士が線条的な近接性によって特徴づけられる「結合関係」である。記号は無秩序に集合しているのではなく、一つの記号は他のパラディグマティックな関係をつくって存在している。そして、記号が表現となるのは、記号が場所も空間も持たない潜在的なシステムとして存在している状態から、シンタグマティックな結合関係を形成し時間および空間の中に存在する状態へと移行することによって実現する。[石田、2003:46-47・池上、1984:145-147]
個々のレコードとそこに収録されている楽曲は、本来はパラディグマティックな関係、つまり統辞クラスを持たない個別の記号だといえる。まず、DJは楽曲のテンションやサブ・ジャンル、後述するDJツールとしてのトラックやアンセムの差異、といった楽曲の機能を分類し整理し、また記憶の中にとどめておく。そうやって統辞クラスを分類しや個々の楽曲の間に差異をあらかじめ作っておく。
DJプレイのリニアな時間の進行も本来はシンタグマティックな「構造」をもたない。その一方でDJプレイの時間やパーティーの時間は決まっている。さらにDJは自分のプレイの役割や位置、クラバーやオーガナイザーの要求を考慮しながら、どこでどういった機能の楽曲を用いるかということを判断し、シンタグマティックな結合関係、つまり、記号の配列としてのDJプレイの流れやストーリーを構想していく。DJがクラブに持ち込むレコードの枚数は限られているが、それらの個々の記号をミックスすることによって組み合わせ、時間におけるシンタグマティックな結合関係としてのDJプレイを現出させる。
その個々の記号としての楽曲は、通常は一晩のパーティーでは一度しか用いられないが、あらゆるDJプレイの中の記号として交換可能である。楽曲は反復が可能であり、あらゆるDJによって何度でも永久に用いられる可能性がある。だが、その楽曲の価値は色褪せてはいかない。シタグマティックな組み合わせの関係の中で違った価値が常に生み出されるからである。DJは、ミックスのテクニックと選曲のセンスによって、様々な楽曲を基本的には明らかな差異や違和感を感じさせないようにミックスしていく。DJによって楽曲はミックスされることで様々の記号間の差異が平準化していく。DJプレイの時間的進行の中での楽曲の差異とロング・ミックスによる楽曲群の平準化・一体化により、そこにイディウム化が起こり、DJプレイが一つのメタ記号となる。
ここまでは静態的にDJプレイの価値について分析してきたが、さらに、リアル・タイムな現象としてのDJプレイについて考察したい。
先に述べたようにテクストの具体的な意味が実現するのは、パラディグム軸とサンタグム軸の法則にのっとって、記号が結びつけられからである。だが、その記号の結合によって生み出されるテクストの意味とは、個々の記号の意味作用の単なる総和ではなく、現働化した一連の記号の相関関係と不可分な意味として、つまり、固有の意味の実現の出来事として生み出される。テクストには記号外の事実への参照作用が起こり、テクストという記号群の現実態は世界との関係づけの中におかれる。また、その記号の現働化による「いま・ここ・私」の布置により、主体は生みだされる。[石田、2003:48-49]
DJプレイは、DJとクラバーとのインタラクティブな関係の中で成立してくる。デトロイト・テクノのセカンド・ジェネレーションを代表するアーティスト/DJであるカール・クレイグは、選曲のポリシーについてこう述べている。「フロアの反応を体で感じることだね。いつも、その場の空気に合わせて即興演奏みたいに曲を選んでプレイしするんだ。」「そのときに感じるままに選曲し、つないでいく。だから、つねぎの法則みたいなものは無いよ。ある場所で盛り上がった曲が他の場所で盛り上がるとは限らないからね。ただ、人を笑わせ、泣かせることができる選曲を心掛けていることは変わらない。」[『GROOVE』2006年 夏号:79]つまり、DJは、あらかじめ選曲のプログラムを決めているのではなく、フロアの雰囲気やクラバーの反応を見ながら、ディスクを選択し選曲を行っていく。そういったDJプレイのインタラクティブでリアル・タイムな価値の成立のあり方を椹木野衣はこのように表現する。「ハウス・ミュージックは、ナイトクラブという刻一刻情報量を変化させる特殊空間においてのみ成立し、そしてそこに夜な夜な集まってくるクラバーのパフォーマンスとの寄せては返すようなエクスタシーに満ちた一体感において始めた完成する。」[椹木、2001:234]
DJプレイは楽曲の組み合わせがその都度のオリジナルであるだけではなく、その楽曲は、ピッチの変更、イコライザーのかけ具合、DJエフェクターによるパフォーマンスによって自在に変形させられる。さらに、そのハコの「サウンド」やクラバーとの関係によって、トラック群によって形成されたDJプレイのコノテーションやパーティーのコンテクストはリアルタイムにインタラクティブに変化し情報量は増大する。そういった要素を含めて、その瞬間の「いま・ここ・私」によるパフォーマンスは一度きりしか起こらない。
ヴァルター・ベンヤミンは、例えば絵画作品において絵の具の厚みや筆致から人々が感覚する歴史性を含んだ真正性や一回性の存在感を「アウラ」と呼んでいる。それに対して、写真や映画といった複製された芸術作品には、「いま、ここに在る」という存在感が欠けているとしている。[多木、2000:38-43・139-142]
現在、そういった従来のアウラに対する考え方を覆そうとしているのが、コンピュータのインタラクティヴィティやランダムネスを活用した「メディア・アート」や映像機器などを用いた「インスタレーション」という形態の美術作品である。それらの作品形態のもつ価値はこのように評されている。「デジタル・イメージはデジタル・データからそのつど再生される画像であり、モノとしての画像ではなく、パフォーマンスとしての画像であり、耐久性と個別性を備えた人工物として実現される画像ではなく、支持体のない、非物理的な現象としての画像なのだ。」[伊藤、1999:37]「現代のインタラクティヴ・アートでは、表現されたものに対する感情移入より行為によって作品が物理的に反応し、作品自体が視覚的に変化することにより、観客が、自身の五感に訴えてくる生理的刺激をエンジョイするのである。これは名画から受ける感動とは違った、ゲーム感覚の参加型の楽しみ方といった方が適切かもしれない。」[三井、2002:109]メディア・アートやインスタレーションは、デジタルな情報によって構成され、ベンヤミン的な意味では「アウラなきもの」でしかない。だが、コンピュータのインタラクティヴィティによる記号の結合関係の変化、ある環境の中でインスタレーション=設置されることによる一回性、観客とのリアル・タイムでインタラクティヴな反応、などによって、そこには“新たなアウラ”というべきものが存在している。そういった記号の組み合わせのダイナミズムによって生み出される価値や存在感を「デジタル・アウラ」と定義したい。
DJプレイは複製技術によってつくられる本来はアウラなきレコードと電子音で構成されるアウラなき楽曲によって構築される。本来は楽曲もその複製品であるレコードも最もアウラなきもののはずである。だが、DJingというパロールの実践によってDJは、DJプレイというテクストの(一定の)「作者」やパフォーマーとなり、テクノというランガージュのうちにデジタル・アウラが現出する。
そして、ほとんどの個々の楽曲はポスト・モダンな皮相な断片でしかないが、DJによってそれらが「その時」を乗り越えていくように弁証法的にひとつのプレイ、ひとつのパーティーとして構築されることで、苦難の道を一歩一歩あゆみ肯定・否定・昇華を繰り返しながら、素朴な「感覚的確信」から「絶対の他在のうちに純粋に自己を認識すること」である「絶対知」[ヘーゲル、1998]に至るような、一元的に壮大な物語が展開していく。クラブという価値や意味が剥奪されたポスト・モダン(でさえない)空間に極めてヘーゲル的な「大きな物語」が現象する。
4.3.匿名の楽曲とアンセム
DJプレイを構成する個々の楽曲はDJプレイを構築するためのパーツであるという意識からか「ソング」ではなく「トラック」と呼ばれている。クラブという特殊空間で用いられる、ほとんどミニマムな電子音響の反復で構成されているテクノのトラックは、ダンス・フロアではその曲名やアーティスト名はほとんどがわからない。そこでトラックのタイトルや「作者」がわかったとしてもほとんど意味がない。個々の楽曲がその時・その場所で・クラバーたちにとって気持ちいいグルーヴとフィーリングを生み出しているかが最も重要なのであり、トラックや制作したアーティストのネーム・バリューは問われない。個々のトラックは匿名性が高く、その「作者」の存在が見えてこない。
その一方で、「アンセム・ソング」と呼ばれるものがある。「アンセム」とは、元々「賛美歌」という意味で、そこから拡大解釈され、DJによってヘウ゛ィー・プレイされクラバーや他のDJに認知されるようになったクラブ・シーンでのヒット曲のことをいう。アンセムは、①賛美歌のように清らかな高揚感やチル・アウトをもたらすもの、②特徴的なパッセージやリズム、ヴォイスを備えているか、ヴォーカルが入っていてフロアをさらに盛り上げるもの、③それらふたつの要素があるものに分類できる。
アンセムは、DJが交代した直後やパーティーの熱狂が佳境に入ったとき、パーティーの終盤など、フロアの雰囲気を活性化させたいときや雰囲気をクールダウンさせて一変させたい時に用いられる。それらは、クラブ・シーンの中でDJやクラバーたちの「常識」となり、CDや専門誌、口コミによって曲名やアーティスト名が知られ、さらにDJがまたプレイをするといったことのフィードバックが繰り返されることでクラブ・シーンに定着することになる。アンセムに対してはクラバーたちの期待が生まれる。そういった期待を汲みながら、トラックとアンセムをどのように組み合わせて、どういうストーリーをつくってDJプレイを構築するか、ということがDJの最も重要なセンスの見せ所となる。アンセムは、基本的にメインのDJが登場した直後やパーティーの終盤というクライマックスで用いられ、クライマックスをつくり、フロアの雰囲気を(再)活性化させる。
また、自作曲を多数発表していて、そのストックが豊富にあるベテランのDJは、ほとんど自作曲のみでDJプレイを構成することもある。そういうケースでは、トラックの匿名性はある程度抑えられる。さらに、著名なDJが自作曲のアンセムを用いることを期待して、その瞬間を体験するためにクラバーがパーティーに集まるということもある。ジョッシュ・ウィンクは、「ピーク時にかける定番曲は?」という質問に対してこう答える。「オーディエンスの多くは僕自身の曲を期待しているから、おのずと「How’s your vening so far?」「Higher state of consciousness」といった自分の曲になるね。この2曲はいつかけても効果があるビックトラックだ。」[GROOVE SPRING 2007:80]
テクノのパーティーの時間的構成や楽曲の差異は、無秩序に存在しているのではなく、一定の秩序やコードといったものが存在する。そのコードの存在があるからこそ、インタラクティヴなパロールの実践が効果を発揮する。